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本日一月一一日は岡崎市上和田町にて家康公を守り果てた土屋長吉公の命日。先ほど石碑の周りを整えてきました。一二時よりささやかな慰霊祭を行います。以下はその際の祝詞の文面。表記は全くの自己流ですが作ってみたもの。
祝詞奏上
家康公の若かりし頃三河一向一揆に包囲された上和田城。土民の蜂起とは雖も、武士も多く加わり、死すも極楽に往生なすと信ぜし者どもは、散りては集り、追はれては合し、門徒の勢は少しも衰えず、日夜にますますさかんとなれり。ここを守るは大久保忠俊・同忠世・同忠佐。 家康公はその苦衷を知るや、単騎にて援助に趣き和田城に至る。 「我は一向宗の信徒なるが故に累代の主君にさへ鉾を向けて戦ひし。しかるに今や主君の御身の危うきを観て豈にまた門徒のうちに在る可けんや。 地獄に堕ちなば落ちよ。吾は寧ろ地獄に落ちむ」と。家康公の馬前に立ち塞がり、今まで共に戦ひたる門徒の勢を突き倒し薙(な)ぎ伏せたり。ついに乱軍の中に討ち死にし、もって、家康公の難を救ひたまいぬ。 これなむ土屋長吉公その人なり。 書に「一騎にして彼の千人に當り、その働き、双方の目を驚かす。君の為に討ち死にして、国恩万分の一に報ふ。これ、士たるものの前覚(せんかく)、武者の恒意なり。」と記録せらる。 本日1月11日は土屋長吉の命日にして集うものどもその遺徳に謝しお祭り申し上げる。願わくば、おのが身を顧みず、主君のみ楯として果てた土屋長吉の御霊の安らけきこと、その至純にして高貴なる魂を郷土の民が受け継ぎゆかんことを慎み畏き申す 平成二十九年一月十一日 三河一向一揆は西三河での大暴動の様を呈し、、若き家康にとっては最大のピンチでした。ここで命を失っていれば徳川の時代は来なかったでしょうし、戦国時代はいつまで続いたかわかりません。土屋長吉の名は本来は地域住民の誇りですので多くの町民の方には知っておいていただきたいものですが、町内一〇〇〇軒ばかりの家があるとはいえ、その名を知る人は数人でありましょうか。しかしとある方が三河一向一揆の図屏風を描かれ、その一部に上和田砦(城)の攻防戦の様子が描かれていたのを総代さんが許可を得て写真撮影してくださり額にしてくださり、またその部分のカラーコピーを町の役員さんに配ってくださったのでやっと広まる気配です。 希望は、この祭りが町を挙げてのものになること。地域の結束につながるとすればありがたい。
いよいよ建国まで一か月。今年は刈谷市でも開催できるようになり、儀式終了後にチラシ印刷に入ります。夕方の開催となります。 先日の成人の日、とある交番に国旗が掲げてなかったので私の国旗を差し込んでおいた。一晩おいて昨夜12頃取りに行くとすでに本庁へ遺失物として移動していた。なんとご丁寧に持ってきてくださるとのこと。まことにもうしわけないことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.11 11:09:12
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