4143748 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

草莽の記    杉田謙一

草莽の記    杉田謙一

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

seimei杉田

seimei杉田

Comments

拈華微笑@ Re:建国祭での実行委員会メンバー日本保守党森下市議当選を神に感謝報告(04/23) 森下さん、ご当選おめでとうございます。 …
通りすがり@ あれ? 以前、眞子さまの件で「秋篠宮の教育が悪…
杉田謙一@ 松井閣下はじめ多くのご英霊のアジア解放の思いを継ぎ行きたい 拈華微笑さんへ 貴重な資料ありがとうござ…
拈華微笑@ Re:岡崎学習会報告(12/11) ■南京虐殺の虚構 『諸君 ! 』一月号の特集…
中村眞次@ Re:三島森田両烈士に顔向けが出来ぬが(11/24) 烈しく散ることだけが報国ではないと思い…

Calendar

Favorite Blog

日本大好き、好きで… 茶畑 元35さん
だって好きなんです… nyago1945さん
余多歩き くれどさん
北国からのこだま 山男7388さん
文春新書『英語学習… Izumi Yukioさん

Freepage List

2019.06.12
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

自然を愛される陛下の初の行幸が愛知での植樹祭。それ以外にも皇太子時代には豊田と安城の明治用水や尾張の木曽三川のご視察をいただいている。無論僕らは奉迎活動を必死になしました。

安城は日本のデンマークとの別名を持つように優れた農業先進地とされており、安城の愛知県立農林学校(現在の安城農林高校)がこの西三河地の農業の中核となっていた。初代校長は山崎延吉先生。岡崎に大正天皇の悠紀斎田が選ばれたのも山崎延吉先生のご指導で稲の品種改良などがなされていた結果が大きく関係していると聞きます。先生のおかげで西三河地方のみならず各地で飛躍的な米の増産をもたらしたのです。

矢作川の水を引いて新田開発を行う計画は、江戸時代文化・文政期に碧海郡和泉村(現安城市和泉町)の豪農である都築弥厚(1765-1833年)の発案。都築は数学者の石川喜平とともに、1822年に用水路の測量に着手し、農民の抵抗に遭いながらも、1826年に測量を完了させた。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。

都築弥厚がいなければ豊かな三河の大地は生まれなかったし、山崎延吉がいなければ尾張知多を流れる愛知用水はできなかったかもしれません。

さてそれほど大切な水資源問題。

 ではこの地、上和田はと問えば水資源を支えた方がいるのです。杉田三郎氏がその人。

上和田公民館に三つの石碑が大切に立てられています。その一つが大久保一族発祥の地。さらに土屋長吉慰霊碑。この二つの碑の事はここ数年での上和田町民の口の端に登るようになってきました。私が様々に語っても来ました。城主宇都宮泰藤のちの大久保氏)の勤王心と、一向一揆での土屋長吉の家康死守の働きです。

さらにおひとりが上和田町民の救世主だった農民杉田三郎氏。用水を作りこの地の農業を守られた方なのです。

この碑は今の占部用水あたりに立っていたものです。無論上和田町域内です。町を東西に貫く県道ができた際にこの公民館敷地内に移転されたもの。

占部用水は今は暗渠となり歩道となっていますが、かつては川として流れ僕らはポンツクをして遊んだところ。中学時代自転車通学で四キロの道のりを走っていましたが北風の突風で川に落とされて着替えて行った友もいた。その後の暗渠化は本当に夢のような出来事。しかしその地のくさとりがほとんどされていなくて私の衛生委員(ゴミ処理・町内美化担当町内役員)就任時には見るも無残な草道と化していた。これではいけないと毎年草取りを成してアスファルト面が現れるようにしたり、町民が勝手つくりの畑地として野菜を作り応分の借地料も払わずに使用、ゴミ処理もできていなかったため、駐車場として整地してもらったのもこの占部用水の暗渠上。私が役員を終えて後、町での清掃をと訴えてこの春を迎えたのでしたが、いつの間にかまた元の草道化に。

おかしい、確かに町が大きくなり町民も引っ越しして見えた方が七割ほどに。しかし町の役員は半数以上が地の方。皆農業も成してみえる家であり、水資源の大切さを十分知ってみえるはず。しかしせっかく町として清掃を成すことが決まったはずなのにその話が流れてしまったような気配。気のせいか、清掃要請をする私が異端児のような雰囲気にも。もしかして町民が大切にしてきた三つの石碑を御存じないのではと思い返しこの一週間の間に三名の町内会長(総代)さんに明治期、地元の用水整備に私財をはたいて取り組まれた杉田三郎さんの石碑を見ていただく。町執行部の皆さんに伝えるべきは伝えたので間もなく対応が決まるで在りましょう。町に正装の余力がないならば私が為せばよいことなのでいずれでも町の決定に従うつもりですが。

ちなみにあくまで一般論ですよ。

町内の歴史や偉人を顕彰していくことは町の結束を生み、一体感を育て、まとまりを作ることにつながるのではないでしょうか。

 

私は土屋長吉の慰霊顕彰祭は御命日の一月一一日に数人の理解者と共に行い、大久保(宇都宮泰藤)の勤王の行動も折を見つけて発信中。杉田氏の顕彰は成していなかったので何らかの形で成さねばならないのかなあと思いはじめましました。 

陛下の水問題へのお取り組みを傍観していてはならぬと思い出したからです。

 

今朝はビンカン回収と燃えるゴミ搬入状況チェック。8時より今日の回収責任者のいとこと語る。彼も先日の陛下の岡崎行幸啓時に国旗をもって奉迎に行ってくれた方。祝祭日には必ず家の入口に国旗を掲げてくれるようになった。私の会合を7月に開催するがそのスタッフを5名集めてくれるように要請。快諾を受ける。

後、母と畑仕事。数年前から屋敷内に畑を作り花や野菜を作り始めたが垣根をなくしたためすべて赤裸々になっている。特に鉄製ラックや鉢植えの草花を載せる台など、鉄製がらくたがみっともないため鉄製品はすべて回収業をしてくれているN氏宅に届け処分していただく。そこにブロックを敷き詰め通路と畑地を区分。少しは見栄えが良くなった。茎から切り落とした樹木の根が取り切ってないままでつまずきやすい処は根からほり出す作業をする。。

12時より母の病院付き添いと買い出し付き添い。後、畑の整備に入る。力任せに作業をしてまたもや道具を破損。

 

 三ヶ根の畑の区分用に板とブロックなどを積み込み運ぼうとするとまたもや雨。ヒマワリの生育が気になるが今日の三ヶ根行きはまたもやあきらめとする。明日午前中には整地作業に入りたい。

 

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.06.12 01:17:19
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
別の画像を表示
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、こちらをご確認ください。



© Rakuten Group, Inc.