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朝6時前に一斉清掃の場所に行き一人草取りをする。農業用水の両側の土手に繁草を刈り取る。 7時前に別町にて草刈りに出かける知人に会い、知事への皇室批判映像展示批難署名を渡し、記載を要請。 7時過ぎにともに下呂に行くいとこを迎えにいく。中央道を中津川にておりて一路下呂へ。3時間かかって楠公回天祭の会場につく。友と合流。愛知からの参列は6名。Sご夫妻とS名古屋大学生と皇學館大學4年生、それに私といとこ。 十時より式典。祭主は平泉澄先生のお孫様の平泉隆房さま。厳かに式典を行う。今年が山崎闇斎公の生誕450年とのことでそれに向けての資料整理を成されているとうかがう。門下生の末裔の方が回天を発射する潜水艦艦長を成されていたことの偶然をお話しくださった。いつもながら実証主義に基づく研究を成されてみえる中で幾多の奇跡的事象に会ってみえるが今回の件もその一つの奇跡体験であったといえまいか。 愛知の教育を考える会代表として玉串奉奠の栄誉に浴す。 黒木少佐は 「一人一艦、体当り撃沈して難局を打開する方策」としてこの特攻兵器、人間魚雷回天の採用を懇請。戦局厳しくなってついに非常なる攻撃方法が採用され、訓練中に事故。その改良を探り、苦しき息のなかでも改善点を記載して、後進へのメッセージを残された英霊であられます。 昨年妹様がお亡くなりになり、生前の黒木少佐を知る肉親の方はいらっ者ら亡くなったようで残念ではあります とはいえ今日は呉市から回天の展示がなされる大和ミュージアムの職員ご夫婦2名さらに前呉市長もご出席になってみえる 回天の旬死者は146柱。 戦前には敬愛されながら敗戦後は悲惨な扱いを受けられ、黒木家は相当ご苦労されたと伺う。お父上も 許しませ 人の魚雷に散りませし もののふの親和子に変わりて の歌をおよみになってみえる 碑の建立をなされた平泉澄先生は先生にとっての至純なる弟子、黒木少佐の死を嘆き、お亡くなりになってすぐに慰霊顕彰を目指されたがかなわず。 戦中には軍神として尊敬されながらいったん敗戦となるや、必死の兵器を作り出した黒木少佐を世の人はなんと批判し侮蔑するなどと情けない時代を迎えることとなってしまっていた。父君の子の和歌の痛ましき事よ。これが情けなき占領政策の成果だったのです。 しかし、昭和36年六月一日の下呂『益田新聞』社説に『民族の人柱 黒木少佐頌徳を提唱』との社説が載った。回天碑の建設を提唱される人物がでたのでした。 社説には (前略)一億同胞安泰の道であると一途に信じ切った青年将校黒木博司は、父母、兄妹との恩愛の絆を断ち恋愛を棄て、回天と運命を共にした至誠、至純壮烈の心事は一世の人々を震駭せしめ、敵国人をも泣かしめた。尽忠報国の赤心まことに語るべき郷土の生んだ軍神であり護国の礎である。
これを機に建立計画がなり、昭和三十九年、九月二十六日招魂祭二十七日第一回楠公回天祭が行われた。以来54年にわたって慰霊祭が実施されてきたのです。
今日のご講演はこの黒木少佐や平泉先生の精神の後継者による32回目を迎える沖縄戦遺骨収容の実践禄。いまだ沖縄に遺骨が眠っている現状を伺い大いに驚く。
こうして毎年多くの方々がご参列になるこの慰霊祭を未来永劫守らねばと強く願ってやまない。
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Last updated
2019.09.08 21:54:52
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