フェルマーの最終定理
図書館で、答えのないひとつのパズルに出会った少年が、30年の歳月をかけてその問題の証明をした。 有名なピタゴラスの定理とは「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい」というもの。この式は x2 + y2 = z2 となる。 n = 2 のとき、上の式を満たす整数の組は無数に存在し、このような数は具体的に書き表わすことができるのだが、この二乗の部分が3以上の自然数 nになった場合、この式が真であるかどうかの証明は、長い間、解明できなかった。17世紀、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマーはディオファントスの著作『算術』を読みながら本文中の記述に関連した着想を得ると、それを余白に書き残しておくという習慣があった。そして、「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」という走り書きをしたのが「フェルマーの最終定理」と呼ばれるもので、3以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない、という定理のことである。それから3世紀という長い間、この証明がなされることはなかった。そして、この証明をしたのがアンドリュー・ワイルズである。第1章はピタゴラスの物語、第2章は17世紀のイギリス、ピエール・ド・フェルマーの最終定理の挑戦、以降、過去40年の研究と革命の出来事が綴られているこの本は難解な数学のことと、それに携わった数学者の話なのだが、とても魅力的な文章でぐいぐいと引き込んでくれる。古代エジプト・バビロニアは毎年氾濫するナイル川のために、耕作地の境界線の復元を毎年しなければならなかった。幾何学(ジオメトリー)とは、土地(ジオ)を計る(メトリー)から生まれた言葉だ。それを経験則から知った人々はその数式を活用することはしたが、その式の土台の論理の証明はしなかった。証明をしなくても、その数式さえ知れば正確な答えが出る。あえて証明する必要がなかったからである。科学的な分野は日進月歩、新しい技術が生まれ、今まで分からなかったものが分かり、初めて知ることができる真実も生まれてくる。例えば、昔ならばDNA検査というものが存在しなかったので体液から個人を特定することは不可能だった。それが今は飛躍的に進歩し、裁判での証拠としても採用されるようになった。科学的な証明というものは、まず、仮説を立て、実験をし、検証をした結果なのである。だが、数学で証明されるということは、普遍なものである。それはもう覆されることはない。夕食は●たけのこシュウマイ 玉ネギはみじん切りにして、片栗粉をまぶしておく。 水分でしっとりしてから豚のひき肉とあわせ、 みじん切りにしたたけのこを入れて、 塩コショウ・オイスターソース・ウエイパーで味をつける。 皮で包んで蒸したら出来上がり。 この日は忙しかったので、 酒を入れた皿の上にクッキングシートを敷き、 ラップをきっちりしてからレンジで加熱したが、 これでも充分だった。●甘エビ シュウマイの皮が足りなくなって 近所のスーパーに買いにいくと、 甘エビが安く売っていた。 子供たちの好物だったのでつい、衝動買い。 メニューを変更して。●スペアリブ 先日、スペアリブの煮物を作ったのだが、 味をつける前に半分とっておいたもの。 焼肉のタレで味付け。 普通に焼くよりも脂が落ちてさっぱりしているし、 柔らかい。作者のサイモン・シンはインド人の科学ジャーナリストである。もともとはこの人の著作「暗号解読」を読んでこの人の魅力に引き寄せられた。この本の内容をあたしはしばらくすると忘れてしまうので先日、3回目にチャレンジしたのだが、途中で放棄してしまった。そしてこちらの本を選んだのだが、たった一つの真実を追究する人々の執念とひたむきさに心を奪われてしまった。フェルマーの最終定理をめぐり、3世紀という長い時間、それはそのままの形で宙に浮かんでいた。他の分野では目覚しい発展を成し遂げているというのに。この真理は、はっきり言って小学生にも理解できる問題だ。そう、数学というものは、数というものはすっきりとして、シンプルで、美しいものなのだ。そして、一見雑然として 公式などないような自然の中にもそれは息づいている。例えば、川の実際の長さと、 水源から河口までの直線距離の比は平均すると3.14になる。π(パイ)と同じなのだ。そして、数学がシンプルで美しいもの、と位置づけている人々は割り切ることができない、分数にもできないπのような数字を嫌い、その中に何らかの法則を見出そうとする。それがないと秩序が保てれないとでも言うように。そういった数字の不思議、そしてエピソードが満載の本である。読後感の感想はとてもすっきりすること間違いないだろう。