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異論・極論・直言――マスコミが言わない解説、提言

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2018.04.11
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(街中で刀の抜くのはご法度だった江戸時代の武士)
 韓流ドラマは嘘だらけというのは定説で、事実をその通り描いたら、あまりに惨めなので、こうありたいという願望で歴史ドラマを作っていると言われている。
 李氏朝鮮の時代には、国民の9割は奴隷状態で、粗末な家に住み、風呂に入るという習慣は基本的にないので、垢だらけ、泥だらけの姿だった。普通の人はトイレで便をするという習慣がなく、ノグソが一般的で、町中のそこいらじゅうに糞が落ちていて、町中に悪臭が漂っていた。
 1割ほどの貴族、支配階級である両班達は、9割の国民を人として扱わず、搾取の限りを尽くした。そして、無理な税金を取り立て、それを払えない人に対しては、手や足の骨を一本づつ折るという折檻をして、苦しむ叫び声が街に響いていたという。
 衣服は染料を買う金がないので、9割の国民のほとんどが白い服を着ていたが、白い色なので、泥と垢が余計目立つ状態だった。
 こうした韓流ドラマ程ではないが、日本の歴史ドラマや時代劇、そして、学校での歴史教育も、本当にお粗末で嘘だらけである。
 そして、何よりも、実際にあった事をきちんと教えないという姿勢が筆者には理解出来ない。自分達の先祖の正しい姿を知らずに、どうして今、これからの日本、日本人を語るというのだ。
 日本の時代劇ドラマをテレビなどで見ていると、武士が刀を振り回して好き勝手をして、町民が困り果てている様子がよく出て来る。これは歴史的な事実と全く違う。
 江戸時代も中期以降になり、世の中が落ち着いて来ると、武士が街中で刀を抜く事は基本的にご法度となった。理由もなく刀を抜いた武士は重いお咎めを受け、切腹、御家断絶も珍しくなかった。
 武士は精神鍛錬をし、いつも世の模範となり、嫌な事、苦しい事にも耐えねばならないという考えで、いつも泰然としていないといけなかった。だから、怒りや不満で刀など抜いてはいけなかったのだ。
 そうした事を知っているので、町人の方でも少し不良や気が荒い人達は、「刀が抜かない武士」をからかい、駕籠かきはわざと乱暴な籠の担ぎ方で、からかったりしたという。
 それでも、武士は我慢した。それが真実の江戸時代の武士の姿である。
 金を借りる時も、農民、商人、職人、武士という人の中で、武士が一番金利が高かった。
 江戸時代の人間は現実主義者で、農民や商人には、いざ、貸した金が滞った時に金の代わりに差し押さえる土地や店、商品がある。職人は腕さえ一人前なら仕事さえすれば、金は入って来た。
 しかし、武士は担保になる土地も店もない。コメが不作の時には、報酬も減らせるかもしれないし、給料以外の副収入は全くない。貸し倒れの危険性が高く、それだから、金利が一番高かったのである。
 鬼平犯科帳などを見ると、押し込み強盗が頻繁に出て来る。しかし、これも実際は滅多になかった。
 江戸は夜は街ごとに木戸が閉まって、よそ者がその地区に入って行く事は難しくするなど、町全体を防衛体制状態にしていたので、強盗が民家に押し込むというような事はかなり難しかったのである。
 強盗や殺人が滅多にない治安の良い街だったので、今で言うと、警視庁と東京地方裁判所を兼ねた町奉行所には、与力、同心など治安にあたる者は数十人しかいなかった。牢屋に入る罪人が極めて少なく、治安はとても良かったのだ。
 韓流ドラマもそうだが、日本の時代劇についても、「あれはフィクションで、作った物語を楽しんでいるので、事実と違っても良い」という人がいる。
 しかし、そこまで知って見ている人は、そうは多くないように感じる。
 筆者はかつて、ある企業経営者と話をしていて、「鬼平犯科帳の世界はほとんどフィクションですよ」と言ったら、その経営者は「そんな事はない。私は池波正太郎先生を信じていますから」と猛烈に反論された。
 事実でない時代劇ドラマは、嘘の歴史、事実と違う嘘の習慣、生活を心に刻み込んでいるのである。

(問い直される「明治維新とは何だったのか」)
 学校で習う歴史の授業では、「明治維新で日本は近代化が出来、欧米に急速に追いついて行った」という事になっている。
 それを国民に広く定着する手助けをしたのが司馬遼太郎氏で、彼が唱えた歴史観は「司馬史観」という名前で、今の多くの日本人の歴史認識の基本になっている。
 しかし、ここ数年、明治維新について、これまで言われて来た事に、異議を唱える本が何冊も出されて来た。明治になって、西郷や大久保という維新の志士たちがリーダーとなって、日本の近代化を進めたというのは嘘で、明治維新がなくても、日本の近代化は出来たという事が言われ出した。
 「明治維新はクーデターで、西郷はテロリストだった」
 というような本まで出て来ている。
 そも明治維新とはなんであったのか。
 ある人はイギリス、フランスなどの国が幕府、官軍の双方について、双方を戦わせ、両方が疲れ果てた時に、一気に攻めて日本を植民地にする積りで、薩長をけしかけたのだという。
 映画やテレビで描かれている徳川幕府の重臣は無能で、欧米の使節に対応が出来ず、右往左往したように描かれているが、実際はそうではなく、かなりしっかり、国難に対応していたのである。
 例えば、ペリーが浦賀沖に来た時、幕府の重臣達は1年後に来るように答えた。
 そして、ペリーが再度来た時、どうなっていたかと言えば、その1年足らずの間に、徳川幕府は江戸湾にお台場を築き、次に艦隊が来た時には、艦隊に対して大砲が向かっていて、艦隊は江戸湾に入る事が出来なかったのである。
 1年足らずで、こんな対応をした国は日本の他にはない。
 少し前の時代だが、ポルトガル人が種子島に銃をもたらした時、地元の領主は3丁を買った。1丁が今の金にして1億円くらいだったという。
 大儲けをしたポルトガル人は数年後、再び種子島に来て、銃をまた売ろうとした。しかし、日本人は買った銃を見本に自らの手で銃を作り、数年で、世界で一番銃を保有する国になっていた。それを知って、欧米諸国は日本を植民地にするのは大変だと感じたのである。
 ちなみに、江戸を離れたペリーはアメリカに帰ったのではなく、琉球に行っていた。そして、琉球で乱暴狼藉、好き勝手をしていた。相手がひるむような対応をしなければ、日本本土も琉球と同じ目に遭っていた事は間違いなかったのである。
 歴史的な事実として、幕末近くになると、日本周辺には西欧の艦隊が多く行き来した。それに各藩は危機感を持っていて、情報収集を行い、対策を協議したりしていた。日本の今の歴史教科書が教えるように、ある日突然、黒船が来て、日本人がビックリしたというのは嘘でなのある。
 多くの各藩では、藩校に家来の子弟を通わせ、身分の上下に関係なく教育をして、その結果を公表した。そして、親の身分が低くても、成績の良い者は江戸の藩邸に送って、進んだ勉強をさせ、藩についての改革提案などを出すように求め、重用したりしている。
 各藩の改革はどんどん進んでいたのである。
 幕末の藩では、佐賀藩と東北の庄内藩の武器は最新鋭で、西欧のそれに劣らない内容のレベルに達していて、この両藩が戦った東北の戦いでは、力が拮抗していて、なかなか決着がつかなかったという。
 佐賀藩の武器は海外からの輸入ではなく、自分の藩で製造したもので、旧藩でも、そうした力を持ったところまで出て来ていたのである。
 薩摩長州が中心の官軍は会津藩に攻め込んだ時の事は、白虎隊の話などで語られているが、本当に語り伝えられないといけない話については、ほとんどほとんどの日本人が知らない。
 戦いが終わった後、官軍は会津の街に居座り、街を人を荒らしまくった。
「会津に処女なし」という言葉がある。この時の事を表したのである。十歳くらいの女の子から六十代の女性まで、徹底して官軍の性的な被害にあったのだ。それも、何日も。
 会津藩の悲劇は更に続く。藩の武士とその家族は会津の地を追われ、青森の極寒の不毛の地に行くように命じられた。満足に作物が獲れないその土地で、万単位の人が飢えと寒さで命を落とした。
 官軍の狼藉は今の新潟県でもひどかった。
 どこの街でも少し歴史がある所なら、江戸時代から続いている老舗の店があるが、新潟市には江戸時代から続いている老舗は存在しない。
 商店はどの店も、その後、店を維持していく事が不可能なくらい、徹底的な収奪に遭ったのだ。

(江戸時代の町民、農民は苗字を持っていた)
 江戸時代には町民の教育機関として寺子屋があったというのは知られているが、その寺子屋の実態はあまり知られていない。
 江戸時代、日本の人口は3千万人程である。この人口で寺子屋は全国に1万5千から2万あったという。ちなみに、人口が4倍になった今の日本で小学校の数は2万校である。江戸時代の寺子屋の数がいかに多かったかがわかる。
 寺子屋に基本的に7、8歳で入り、6年間勉強をした。毎月、1日、15日、25日が休み、それ以外では五節句、年末年始だけが休みで、授業は昼休みを挟んで、朝の8時から午後の2時までだった。
 教師は豊かな町人、医師、神官などがなったが、授業料は今よりも遥かに安く、教師側はボランティアに近かったという。教師の半数は女性だった。
 教師の公的な資格はなかったが、教師、当時の言い方だと、師匠になると、名鑑に載るので、尊敬されるのが、報酬のようなものだったという。
 教える内容は読み書き、そろばんという事に加えて、その子供の親の職業に合わせて、子供に農民には農民の基礎知識、商人の子供には商人に必要な知識の教育と、その子供の合わせた教育をした。
 教材は「商売往来」「百姓往来」などというタイトルで、もの凄い数の教材が寺子屋にはあり、その中から必要な知識を教えて行った。
 また、漢字5文字からなる漢詩スタイルの「童子教」「実語教」で、倫理や人としての心得なども、小さな頃から暗唱させ、少し大きくなってから意味を教えて、心に刻み込んで行った。
 幕末の頃には就学率は8割位で、日本人の識字率は8割で、当時の欧州の識字率はイギリスで2割、フランスは1割くらいだった。
 苗字の話についてだが、教科書には江戸時代の町民、農民には苗字がなかったが、明治になった、苗字を名乗る事が認められたので、皆、自分の苗字を選んだとなっている。
 しかし、これも嘘である。
 江戸時代には、町民にも苗字があった。しかし、江戸時代が20年近く経った1801年に、苗字帯刀令が出て、農民、町民は苗字帯刀が禁止されたので、公的には名乗らなくなったに過ぎない。
 だから、明治時代になって、苗字を名乗って良くなった時、ほとんどの日本人は元々の苗字を名乗ったのに過ぎない。新しい苗字を選んだ人は極めて少なかったという。

(島原の乱の反乱軍は何故、そんなに強かったのか)
 戦後の日本の教育の最大の間違いは、考える事、疑問を持つ事を軽んじ、丸暗記、詰込み教育、「言われた事をその通り覚える事」を子供たちに強要した事である。
 物事には原因と結果がある。何かが起きる時には原因があり、その出来事がまた別の事に波及し、新しい事を派生させて行く。こうした物事の流れを考え、追う習慣が身に着くと、新しい事に出会っても、考えて類推が出来るようになる。
 しかし、戦後の日本では、「何故、どうして」を問う事を教師が事実上、禁止し、考える事を禁止してしまったため、子供達、そして、やがて成人した人達が自分の頭で考えず、命令の通り動くロボットになったしまったのである。
 命令通り動くだけでなく、事実が命令と異なった時でも、命令に合わせて、事実の方を捻じ曲げて処理し、表面を取り繕うという習慣が身についてしまったのである。
 企業の相次ぐ不祥事、官庁のデータ改ざん事件、嘘の報告などは、こうした教育が徹底された結果、当然のように起きて来たのである。どこかの企業、特定の役所の特殊な話ではないのだ。
 加えて、日本の、そして、日本人の過去、あった事、そして、その原因と派生した事を関連付けて考える事を教えず、歴史は年表だけの暗記だけにしてしまったので、本当の歴史や、そこで活動した人が何を考え、どう行動したかが見えなくなってしまったのである。
 島原の乱を例にとると、重税とキリスト教弾圧に抗議した農民を中心とした人達は、島原藩や唐津藩の軍隊を相手に4か月間戦った。この事を聞いた時、何か不思議だと感じないといけない。
 まず、反乱軍の数は3万7千人である。
 3万7千人という数字は、第一次の元寇で、攻めて来た元とその手下の高麗軍を合わせた数である。日本を襲った未曽有の危機の時の敵方の数と同じくらい凄い数字なのである。
 また、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦った時、両軍合わせての人数と同じ数である。とてつもなく多い数字なのだ。1地方の反乱で、そんなに数が集まったのは何故だと考えないといけない。
 島原藩や唐津藩は、最初は甘く見て、同じくらいの兵で攻めて、撃退された。
 でも、甘く見たにしても、農民中心の反乱軍に正規の武将の軍隊がなぜ、そんなにてこずったのかという疑問が出て当然である。後半になると、反乱軍は籠城するが、初めの内は籠城ではなく、城外で戦っているし、島原藩の城も攻めている。
 島原の乱は反乱の理由として、重税とキリスト教弾圧への抗議を教わる。つまり、反乱を起こした方が大いなる被害者だという解説が日本での教科書の定説である。
 でも、キリスト教会は、ここで死んだ天草四郎などの教徒達を聖人にもしていないし、殉教者にもしていない。何故だろうか。これも考えないといけない。
 こうした疑問を持って資料を少し調べると、色々な事が分かって来る。
 まず、重税に苦しんだというが、最初のトラブルは信者側が代官や周辺住民に、キリスト教への改宗を迫り、拒否する代官を殺害した事などから起きている。代官に限らず、周辺住民で強制されてキリスト教に改宗させられ、反乱軍に入らされた者が結構いるのだ。
 そして、何よりも、代官との交渉では宗教の話はしていても、何故か、年貢の話はしていないのだ。つまり、年貢が重すぎるから反乱を起こしたという話がどうも違うのだ。
 この地区は小西行長、有馬晴信というキリスト教大名の支配地だったが、関ヶ原の戦いで、小西行長は処刑され、領主が変わった。そして、以前の小西、有馬の領主の家臣のかなりの数の者が農民となった。
 つまり、農民とは言うが、つい数年前まで武士だった人が多くいたのである。
 そして、彼らは熱心なキリスト教徒で、自分だけが信仰するだけでなく、他の人に信じるように強要して行き、トラブルが発生していたのである。
 戦いが起きた時、反乱軍側には3千丁の鉄砲があったという。物凄い数である。一説には、ポルトガルなど外国が武器を支援し、日本に内紛を起こさせたという話もある。
 いつまでも城を陥落させられない事に怒った将軍、家光は周辺の大名に攻めさせるのではなく、江戸から老中、松平信綱を司令官に任命して送り、遂に陥落させた。
 戦いの最後の方に、何故かポルトガルの船が城に向かって砲撃している。ポルトガルの支援を期待していた反乱軍に、この砲撃が与えた影響が大きかったようで、最後は反乱は鎮圧された。
 当初、反乱軍に支援したと言われ、その後、反乱軍からも支援を期待されたポルトガルは、反乱軍の城に向けて砲撃しないといけない理由があったのである。
 反乱軍を応援し、武器も与えたが、そこを幕府に指摘され、日本での利権を失いそうになったので、反乱と関係していていないという事を示すために砲撃したと解釈するのが普通だろう。
 島原の乱だけでなく、日本におけるキリスト教の布教禁止の話は、教科書や、こうした題材を扱った小説で、「理不尽なキリスト教弾圧」というトーンで語られる事が多い。
 しかし、キリスト教の牧師は単に宗教の布教にだけ日本に来たのではない。
 他の東南アジアやアフリカ、中南米の例でもそうだが、宗教はその土地を支配し、植民地にし、搾取するための1つのツールとして使われたのである。
 欧米人が描く、この時代の映画「ミッション」などを見ても、バイブルを片手に持ち、もう一方の手で剣をもって、「キリスト教を信じるか、さもなければ、死を」と現住民に迫るシーンが出て来る。
 キリスト教の牧師が日本に来るようになってから、日本人の女性が誘拐、拉致され、海外に売られたという話が結構な件数ある。日本人が関与していたケースもあるし、ポルトガル人だけでしたケースもあるようで、日本に来た宣教師も海外に売られる日本人女性の話を書いている。
 キリスト教の牧師はただ善意で日本に来たのではないのである。





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Last updated  2018.04.11 00:13:34
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