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Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

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Shige&Happy@ Re[1]:実践しているデンタルケア(12/24) mabo400さんへ 一旦始めると、毎食後やら…

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2018/02/17
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​​個人の復権​​

 ※大学のクラス機関紙「黎明108号」(1972年6月10日発行)より

​  クラスボックスの机の上に一冊のノートが置いてある。題して落書き帳。落書き帳には誰でも好きなことを書ける。誰が書いた、彼が書いたとせんさくされることは無い。各人各人の悩み、苦しみ、喜びなど、自由に書ける。一つの意見が書かれると、それに対して賛否両論多くの人の考えが数日のうちに書かれる。落書き帳を見るのは楽しみである。毎日顔を合わせているのに、なぜ口に出して話せないのだろうと思うけど。一対一の意見の交流というものが阻害されている社会科クラスの現状からみれば、ささやかなコミュニケーションの場として落書き帳の存在は貴重である。
 落書き帳だけでなく、クラスボックスでは誰でも自分が考えていることを自由に言えばいい。喧嘩、口論、大いに結構である。誰かが落書き帳に「この社会科クラスに敵はいない」と書いていた。彼が独裁者だから敵がいないという意味ではなく、真に意見を戦わせる相手がいないという意味での「敵はいない」であろう。本当にそうなら、クラスにとっても彼にとっても悲しむべきことである。或る意味で今のクラスには厳しさが欠けているということは事実のようだ。つまり、いいかげんな言葉や行為が通用しているということはその事実を物語っている。自由に何でも言うのはいいが、自己の発言には責任をとってもらいたい。
 我々はもう一度クラスにおける人間関係を洗い直す必要があるだろう。つきつめれば人間と人間のつきあいというものは、かなりしらけたものである。誰でも立っている基盤が違うんだから、その思想が各人各様なのはわかりきったことだ。自分とこの人間とはこの点で違うんだという認識に達した時、その時から本当の人間関係が始まると考える。一つの結論めいたことを言えば、人間関係というものは相手である人間の否定から始まり相互の立場の理解により発展するものであるということです。

「黎明108号」

(ガリ版刷り35ページ、表紙も自分が書いたもの)

​ ここで、これまでのクラスの人間関係はというと、上級生と下級生の間はもちろん、同じ学年のわずか数人の人間同士でさえ、本当の意味での思考の交流はなかった。つまり誰でもある程度他の人を無視していた。これは、相手を知り尽くした上での反発による無視ではなく、話す前から「あの人間とはどうも気が合わないようだ」という感じで判断しての無視であるから始末が悪い。これでは真のコミュニケーションは生まれず、したがって何かをクラスでやろうとしてもうまくいかないのは当然でしょう。青いリンゴでもかじってみなければわからない。ひょっとするとおいしいかも知れない。人を外見で判断することは非常に危険なことである。クラスの縦の関係からいけば、先輩は後輩に対してもっと苦言を呈して欲しいし、後輩は先輩に対してもっと図々しくなって欲しい。図々しさも一つの美徳だと思うのです。
 私はこれまでもそうでしたが、リーダーとなったこれからもクラスに顔を見せない人(いわゆる無関心派)とそれ以外の人を差別したくないし、だいたい差別する根拠はないと思う。人間をそういう外面的な基準で分類することには反対である。我々はクラス員である前に、一人の人間であるはずです。人間同士のつきあいがなくてなんでクラス活動だ。我々が今成さねばならないことは個人対個人のコミュニケーションの復活、言い換えれば集団における「個人の復権」である。

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Last updated  2018/03/05 04:30:42 PM
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