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新一の「心の一票」

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人生観・テレビ・芸能人

2022.05.02
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​​​​2022年4月に放送されたNHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」(=完全版(90分)+簡略版(60分))を閲覧しました。NHKという看板(やその看板から推測される潤沢な予算)と立派に釣り合う、高精細なCG技術や世界規模の取材ネットワークとは裏腹に、残念ながら、多くの視聴者の誤解を招くような、様々な不正確な内容もありました。誤解や不正確な情報の拡散に歯止めを掛けるためにも、また最も中核的な当事者である私自身の考えに関する明示的な記録・「証言」を残すためにも、番組内の不正確な内容について、この度、ブログ記事という形で補足的な解説を公開し、警鐘を鳴らすことに致しました。
 
 
 
番組の「前半」の評価
 
本論に入る前に、ここで言う「前半」の定義について説明しますと、素数やABC不等式の解説から、A・Bとラベルが付いた球面の解説(=つまり、Aの「2」がBの「4」、Aの「4」がBの「16」と繋がっているという解説)辺りまでの部分を指すとします。このABC不等式の解説にしても、A・B球面(=理論の用語で言うと、「テータ・リンク」)の解説にしても、内容は概ね適切で、CGも立派でしたので、多くの視聴者にとっては消化しやすい、NHKという看板と立派に釣り合う解説になったように思います。特に、A・B球面(=「テータ・リンク」)の解説の中で、掛け算と両立的であるが、足し算と両立的ではないという部分は立派だったように思います。
 
「前半」の場合、解説の「本筋」が適切だったことを考えると、「前半」全体に対して(文句なしの、ただの)「合格」という評価を与えたいところですが、残念ながら何件か、「本筋」には該当しないとしても一定の重みのある側面について、誤解を招くような不正確な内容も含まれていたため、「ぎりぎり合格」という評価にせざるを得ないという結論に至りました。
 
まず、「宇宙」という用語ですが、「望月が導入した概念・用語」という主旨の解説になっていますが、これは単純な事実誤認です。よく知られていることですが、「宇宙」という概念・用語は1960年代のグロタンディークの論文「SGA4」に遡るものであり、私が生まれる何年も前から数学者の間で用いられていた概念・用語です。一方、グロタンディークが考えていた数学では、別々の宇宙が登場しても、その間の関係性は、足し算と掛け算の両方が共に有効である「環論的」な対応付けによって誘導されるものであるのに対して、宇宙際タイヒミューラー理論では、A・B球面の解説にあった通り、掛け算とは両立的であるが、足し算とは両立的でない対応付けによって誘導される、別々の宇宙間の関係性を考えます。つまり、「宇宙」という概念が新しいのではなく、別々の宇宙の繋ぎ方が新しいということです。このような状況が、まさに​(私が実際、新たに導入した用語である)「宇宙際」という​用語が物語っている状況です。ここで説明した経緯については番組内で幾らでも簡単に軽く言及することができたはずなのに、不正確な解説が行なわれたことは残念です。
 
次に、私のプリンストン大学での学位論文のテーマの解説ですが、数学の場合、一般に(=少なくとも、当時のプリンストン大学においても、また現在の京都大学数理解析研究所においても)学位論文のテーマは原則として学生が、(実際に学位論文の提出期限までに得られた研究成果を参考にして)自由に決められる性質のものであり、指導教員が与えるテーマは、(初めて本格的な研究に取り組む立場にあることが多い)学生を支援するための「ヒント=サービス」のようなものであって強制力のあるものではありません。ですから、番組内で主張されているように、指導教員に「ABC予想」を学位論文のテーマとして与えられなかったことを私が「残念がった」等というはあり得ない、可笑しな話であります。実際には、より現実的なテーマである、フルウィッツ・スキームに関するテーマを与えられたのですが、予定よりだいぶ早くそのテーマに関する研究成果を得ることができたため、1991年1月に、もし時間が余っているのなら、(ABC予想に非常に近い)「エフェクティブ・モーデル予想」について考えてみたらどうかという主旨の提案を、指導教員からいただきました。ご本人はその場面を余り記憶していないか、もしくは余り本気度のない提案のつもりだったかもしれませんが、私にとってはとても印象的な場面だったので、そのときの板書の様子等も、今でも鮮明に記憶しております。
 
最後に、プリンストン大学で学位を取得後、米国では「引く手数多」の非常に恵まれた状況にあったにも関わらず、京都大学数理解析研究所の助手として就職したことがとても不可解であるという主旨の(番組側の)状況認識を面白可笑しく解説する場面が番組内に出てきますが、これは実際に当時あった状況に対する基本的な誤解に基づく解説であり、とても残念です。本ブログでも度々解説していることですが、当時の(と言っても30年後の現在の方がより激しくなっている気もしますが)米国での状況は、社会的な面においても、職業的な面においても、私にとっては極めて厳しいものでした。詳細については本ブログの他の多数の記事に譲りますが、簡単に総括すると、米国での状況は、
 
       皆が皆、お互いに訳の分からない、出鱈目で
       頓珍漢な異邦人のようにしか思えず、誰の
       手にも負えない複雑度に圧倒されながら生活
       している戦場のような状況で、正常で人間
       らしさのある人間関係はいつまで経っても
       成立しない状況でした。
 
このような状況ですと、当然仕事にも諸に影響が生じます。就職した当時の数理研の関係者は鮮明に記憶していると思いますが、あの頃の私は本当に死に掛けているような、かなり厳しい状況にありました。特に、指摘するまでもありませんが、「引く手数多」どころではありませんでした。数理研で与えていただいた様々な貴重な機会がなければ、現在の自分がどうなっていたかと思うと、正直なところ、恐ろし過ぎて考える気にもなれません。
 
 
 
番組の「後半」の評価
 
「前半」以降(=「A・B球面」以降)の部分を以下では、「後半」と呼ぶことにしますが、少なくとも「本筋」の数学的解説が立派だった「前半」と打って変わって、「後半」では、視聴者をいわば煙に巻くような、一種の「トンデモ系」路線に、番組のナレーションが舵を切ることになります。これは、NHKという看板の「威信」という面から言っても、(国民の血税で賄われていると思われる)潤沢な予算という面から言っても、また(多くの人が分かりにくいと認識している)理論を番組の前半と同等に明快な語り口で(NHKらしい重みや品格を添えて)解説する絶好の機会であったという面から言っても、個人的には残念でなりません。
 
本論に進む前に、「後半」の「本筋」を復習しますと、数学では、ポワンカレ以来「同じものを同じと見做す」ことが基本であったのに対して、望月はその考え方を抜本的に覆し、「同じものを違うものと見做す」という考え方を導入したという主旨の主張を、クレタ人の矛盾めいた話や、(オウム真理教による、「ポア」の正当化等の「トンデモ系」説法を彷彿とさせられる)仏教的な思想に絡む石庭の話を援用しながら解説しています。別の言い方をしますと、「AはAであって、同時に非Aでもある」という、自己矛盾していそうな、不思議な謎めいた考え方が望月の理論の基本となっていて、それが海外の研究者には受け入れ難い考え方であるという解説です。実際、番組放送後、この「AはAであって、同時に非Aでもある」という不思議な考え方を褒め称える(残念な!)内容のメールが、番組の視聴者から(私の大学のメール・アドレスに)何通も届きました。
 
まず、誤解がこれ以上広まらないように明言しておく必要があるように思いますが、
 
​      「AはAであって、同時に非Aでもある」と​
​      という、あからさまな論理矛盾を来たしている​
​      ような主張は私としても、全くの出鱈目であり、​
      ​宇宙際タイヒミューラー理論とは無関係​
 
であります。一方、「同じものを同じものと見做すか、それとも違うものと見做すか」という話は、恐らく通常の数学用語で表現すると、
 
​      「同型なもの(=つまり、同一の'設計図'に​
      基づく内部構造を有するもの)を、​同一視​
​      するか、それとも区別するか」​
 
というような記述の、一般人向けの翻訳のつもりでしょうが、同型なものを同一視することも、区別することも、(20世紀​初頭に遡る)公理的集合論によって当たり前に記述できる​考え方であり、つまり古くから純粋数学全般で広く知れ渡っている当たり前な考え方であり、決して私が最近になって導入した考え方ではありません。
 
​​番組内では、三個のリンゴの話が度々登場しますが、この「三個のリンゴ」という考え方自体、それぞれのリンゴが​「同型」であるという認識がなければ成立しませんし、また「同型であるにも関わらず、それぞれのリンゴは同一視せずに区別する」という考え方がなければ、「三個」という概念も成り立ちません。(つまり、区別しないで同一視してしまうと、「三個」は「二個」になったり、「一個」になったりするということです。)完全版の最後辺りに出てくる、平面における「x軸」と「y軸」も同じ現象の一例になります。(つまり、「x軸」も「y軸」も、一次元の直線と同型になりますが、同一視せずに区別して扱うようにしないと、「平面」という幾何的図形は成り立ちません。)もう一つ初等的な例(=詳しくは、理論の解説論文 ​[EssLgc]​ 2.4.6 をご参照下さい)を挙げると、一般に数字の記述に使われている十進位取り記数法における、「一の位」の「1, 2, 3, ..., 0」は、「十の位」の「1, 2, 3, ..., 0」と、抽象的な数学的対象としては内部構造が「同型」なものですが、同型であっても、「一の位」と「十の位」を区別して扱うようにしないと、(当たり前ですが)十進位取り記数法の仕組みは成り立ちません。​​
 
高級で斬新な理論の解説は別として、学部レベルの数学教育という立場から考えても、同型なものを場合によっては同一視したり、場合によっては区別したりすることは、(上述の公理的集合論に立脚した)数学では当たり前な操作であって、繰り返しますが、決して私が新たに導入した考え方で​はありません。また「AはAであって、同時に非Aでもある」と​いう、あからさまに自己矛盾するような主張は(当然、宇宙際タイヒミューラー理論も含め)公理的集合論を基礎とする数学では断じてあり得ません。つまり、番組内でこのような解説が行なわれたことによって、一般の視聴者に対して、数学の研究とはどういう​ものであるかについてかなり著しい誤解・混乱を拡散したこと​​​になり、論理的な・数学的な思考の普及数学教育の観点​​​から見ても極めて遺憾であります。​
 
では、番組後半の「本筋」に根本的な問題があるとすれば、​​(予備校風の)「正解」「模範解答」は一体何なんだろう​​と、気になる読者の方がおられるかもしれません。例えば、実際に番組前半にあった「A・B球面」の解説の延長線上で、
 
   宇宙際タイヒミューラー理論では、球面の「A」と「B」
   を勝手に区別したり、同一視したりして整合性のない議論
   を展開していると誤解する人もいますが、そのようなことは
   一切ありません。むしろ、​不思議な形で繋がった状態の​
   「A」と「B」を(同一視せずに)区別したまま、大きな
   入れ物の中に埋め込んで、その入れ物の幾何を調べること
   によって「A」と「B」の間の距離は、実はそれほど大きく
   なく、不等式で上から抑えることができることを、「遠
   アーベル幾何学」と呼ばれる数論幾何学の一分野による手法
   を用いて示します。
 
といったような、単純明快な解説は(NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で)幾らでも簡単にできたはずです。また、更にもう少し時間の余裕があれば、加藤文元氏の​ビデオや​解説本​にあったような、携帯電話間の通信による喩えを用いることによって、「遠アーベル幾何学」において数学的対象の対称性からその対象の内部構造を復元する仕組みについて解説することもできたはずです。
 
もう一つの「模範解答」の例として、(理論の解説論文 ​[EssLgc] 2.4.7 (v)に記載されている)球面の幾何による解説が挙げられます。こちらの模範解答では、(「A球面」、「B球面」の代わりに)
 
    一つの球面の北半球と南半球の、赤道線による
    貼り合わせ=繋ぎ方を考えます。理論では、北半球と
    南半球を勝手に区別したり、同一視したりして整合性
    のない議論を展開していると誤解する人もいますが、
    そのようなことは一切ありません。むしろ、不思議な
    形で張り合わさった=繋がった状態の北半球と南半球
    を(同一視せずに)区別したまま、球面全体という入れ
    物の中に埋め
込まれたものとして扱い、その入れ物の
    幾何(=球面上の経線等、大円に
よる幾何に対応する
    ような幾何)を調べる
ことによって北半球と南半球の
    間の
距離は、実はそれほど大きくなく、不等式で上から
    抑える
ことができることを、「遠アーベル幾何学」と
    呼ばれる
数論幾何学の一分野による手法を用いて示し
    ます。
 
といったような解説になりますが、このような解説も、NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で幾らでも簡単に実現することができたはずです。
 
なお、NHK流解説の定番ということで、19世紀の権威ある数学者を登場させないと気が済まないということであれば、(前述の「トンデモ系」路線の正当化に、不幸にして駆り出されてしまった)ポワンカレではなく、ワイエルシュトラスとリーマンの複素関数論への正しいアプローチを​巡る、

     「代数的真理」(=ワイエルシュトラス側)対
     「幾何的夢想​
​」(=リーマン側)の有名な論争

を紹介することが幾らでも簡単
にできたはずです。この論争では、リーマン面の幾何を用いるリーマンのアプローチがワイエルシュトラスの批判の主たる対象ですが、リーマン面はまさに(前述の北半球と南半球の話もその一例になりますが!)複数の同型な複素平面内の領域を、区別したまま張り合わせることによって定義されるものです。加藤文元氏が予てから度々指摘していて、かつ ​[EssLgc] §1.5でも解説している通り、この19世紀の論争におけるワイエルシュトラスの批判には、宇宙際タイヒミュー​ラー理論の論理構造を誤解している研究者による、まさに時代錯誤的な批判との​類似点が(実に不思議な位に!)数多く見られます。
 
​​最後に、番組後半において制作陣がいわば「トンデモ系」路線に手を染めるきっかけとなった「動機」と思われる経緯について言及したいと思います。一言で総括しますと、つまらない誤解(=​以前のブログ記事​でも、​[EssLgc]​ でも度々解説している通り、日本でいうと、修士課程レベルの数学でも十分解説可能な誤解)が原因で宇宙際タイヒミューラー理論に対して否定的な立場をとっている海外の研究者と、(私を含め)理論に深く関わっている研究者を、同時に持ち上げたい=同時に盛大な「イエス!」を送りたいという無理難題への制作陣の執着「動機」になったように見受けられます。数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しようとすると、(ほぼ同義反復になりますが!)数学的な・論理的な矛盾は必然的に発生してしまいます。一方、実際の数学、実際の宇宙際タイヒミューラー理論そのものには、(「同じものを違うものと見做す」あるいは「Aはであって同時に非Aでもある」といったような)矛盾は何もありません。つまり、数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しないと気が済まないという、​​
 
​       NHKの制作陣の方針上の矛盾を、無理矢理、​
​       理論の数学的内容に責任転嫁しようとする、​
 
制作陣の、まさしく文字通り無責任な姿勢が窺えます。このような局面に遭遇すると、
 
           ​「veritas vos liberabit」​
 
(=「真実はあなたがたを自由にする」)という、有名なラテン語の格言が頭に浮かびます。つまり、上述の「模範解答」(2例)のように、数学的な内容を、NHKらしい立派なCG技術等を駆使してただ淡々と正確に解説していれば、「二つの矛盾した主張を同時に肯定しなければならない」という、無責任な上に、不純かつ実につまらない政治的な葛藤からすんなり解放されるのではないか、ということです。
 
 
 
​​海外の研究者への取材について
 
番組後半では、何名かの否定的な海外の研究者へのインタビューが出てきますが、これらのインタビューについて様々な疑問点があります。
 
まず、これらのインタビュー全般を通しての疑問点ですが、何で次のような、まさにことの核心・本質を突くような質問をしようとしなかったのか、こちらとしては不思議でなりません:
 
・数学の性質上、適切な、建設的な空気の下で論理的な議論さえ行なうことができれば、必ず共通の認識に到達することができるはずです。​今年1月のブログ記事​で言及した欧米の研究者もまさにそのとてもよい一例になりました。また ​[EssLgc]​ §1.12でも解説している通り、理論が書かれて​いる原論文や解説論文を読むことの他に、数学的対話を​行なうことが、諸々の誤解を解消する上において、最も重要な手段であると言えます。にも関わらず、もし理論についてどうしても理解できないことがあると仰るのなら、何で望月本人(または望月の周辺にいる研究者)に直接連絡して、メールやビデオ通話等を通して徹底的に議論しようとしませんか。
 
・これまでの数々の​ブログ記事​でも、​[EssLgc]​ でも解説している通り、誤解が原因で否定的な立場をとる研究者たちは、理論において同型な数学的対象たちを無理矢理同一視することを主張していますが、そのような不適切な同一視をしてしまうと、理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造が破綻してしまいます。もし不適切な同一視を実行しても理論の論理構造に影響が生じないことを主張するのであれば、この理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造​の破綻との整合性をどう説明しますか。​
 
一方、個別の研究者についても様々な疑問点が頭に浮かびました:
 
 
ファルティングス氏の場合:
 
・インタビューでは、数学の理論は、論文を丁寧に読まなくても大まかな方針・アイデアを手短に伝えただけで理論の正否が判断できるものでないといけないことを主張しています。まず、一般論のレベルで考えても、これは全く可笑しな話で、読む側の研究者が既に精通している理論や議論に非常に近い内容の論文の場合、論文の詳細を精読するまでもなく、大まかな方針・アイデアを聞いただけで理論の正否の判断が付くことがあるとしても、多くの場合、つまり読む側の研究者が偶々慣れ親しんでいる範囲から外れている数学的手法を用いる論文ですと、論文を丁寧に読んでなおかつ場合によっては相当の時間をその内容の消化・理解に費やさないと、論文の内容を理解することはできません。これは数学全般に通じる常識と言い切ってよいと思います。なお、ファルティングス氏の場合、ご本人の研究(=1980年代後半の、p進ホッジ理論における「殆どエタール拡大」の研究が特にそうですが)の歴史的経緯から考えても上述の主張はとても不思議な主張に聞こえます。ご本人の研究論文の場合、他のp進ホッジ理論の専門家が論文のアイデアをちょっと聞いただけで論文の正否の判断が簡単にできたかというと、実態は(関係者の間ではよく知られている話ですが)それには程遠いものでした。実際、同氏は当時、まさに自分の論文を丁寧に読んでくれる研究者が余りいないことによって的外れな批判が多発しているだけだと盛んに主張していたように記憶しております。つまり、同氏の主張を時間軸に沿って総括しますと、「自分の論文を丁寧に読んでくれない研究者は断じて許せないが、他者の論文を丁寧に読むことを自分に期待するなんて到底承服できない」という、身勝手極まりない、一方的な主張のようにしか聞こえません。
 
・ファルティングス氏のインタビューの別の部分では、宇宙際タイヒミューラー理論の最も基本的な問題は、「望月が理論を説明してくれない」ことにあるという主旨の主張をしています。過去10年間にわたり、多数の研究者に対して膨大な時間を掛けて、一対一の交流や多数の講演・研究集会を通して理論を解説し、理論の理解者が多数出現しているという実態を考えると、こちらとしてはとても不思議な主張に聞こえます。また個人的なレベルで見ても、過去の数々の研究集会への招待を同氏が断ったり、昨年秋には同氏宛てに数学的対話を呼び掛けるメールをこちらから送信しても返信がなかったりと、とにかく不思議な思いが拭えません。
 
 
デュプイ氏の場合:
 
・番組後半の、特に最後の部分では、デュプイ氏の活動に焦点を当て、まるで輝かしい「希望の星」であるかのような演出をしています。一般論になりますが、同氏が行なっているような理論の普及活動に取り掛かる前に、まず自分自身、理論を適切に、きちんとした形で理解する必要があります。限定的な、中途半端な理解しかないまま活動を開始してしまいますと、自分自身の誤解を広めることにしかなりません。詳細はここでは控えさせていただきますが、このような一般論から考えると、上述の番組の演出にはただならぬ違和感を覚えます。
 
 
 
​​最後に、海外での放送用に番組の英語版(=字幕なのか、吹き替え版なのかは不明ですが)も準備中であるとの情報がありますが、本記事で詳しく解説した通り、もし番組の内容(=特に番組後半)を大幅に訂正しないまま、このような計画が実行されてしまいますと、私や私の研究に対する多数の残念な誤解の拡散や名誉棄損に繋がる可能性があるのみならず、「日本を代表するNHK」ということで、日本の国全体の文化的水準に対する「評価の下方修正」(=具体的には、冷笑?失笑?場合によっては爆笑?)を誘発する危険性を孕んでいることを、関係者の方々に是非ご自覚いただきたいように思います。​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






Last updated  2022.05.04 16:53:07


2019.01.02
2018年を振り返ると、海外を発信源とする、出鱈目な内容の残念な雑音に振り回された年になってしまったな、というのが正直な感想です。

そのような出鱈目な内容の残念な雑音に接した場合、毅然とした姿勢で対応することの重要性を改めて認識させられる年にもなりました。

更に、そのような状況に遭遇したとき、毅然とした姿勢で対応することを可とせず、「おこがましい」とか、「僭越だ」、「傲慢だ」といったような批判を浴びせたり、何とか工夫してごまかしたり、(事実関係からして頓珍漢な)玉虫色の絵を描こうとしたりする等、いわゆる「事なかれ主義」的な対応こそを最も「潔い」対応の形態とする、実に残念な文化が国内外を問わず人類社会に深く根を下ろしているという実態を、改めてまざまざと見せ付けられたような思いをしました。

以前の記事(=2017-11-21付け)でも、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することの重要性に言及しましたが、より大局的な視座から考えても、

   議論全体の健全な形での進行・発展

を図る上においても、毅然とした姿勢で対応することは議論に直接関わっている関係者全員のみならず、後世の利益にも最も適った形の対応になります。

関連した指摘になりますが、昨年(=2018年)は大航海時代の地動説や、20世紀前半の相対性理論を巡る、(それぞれの)当時の激しい議論について初めてネット等で調べ、そのような激しい議論のような状況において、

 関係者全員の主張(やその主張の背後にある
 論理構造)の詳細かつ明示的で、(特に後世
 の)一般人でもアクセス可能な

        記録を残す

ことの歴史的重要性を強く印象付けられました。このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。

最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において

      「世界をリードする」

という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、

 「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
  流行りを日本でもいち早く導入し(言い
  換えれば、いち早く「ダウンロードして
  インストール」し)、その欧米の主流や
  流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
  を発信することこそが「世界をリードする」
  ことである

というような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。しかし、上で述べた通り、(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で

  「ノー」を発信できる文化を育むこと
  こそ、数学を始め、学問の原点でも
  あり、また(数学を始めとする)学問
  の真の発展を実現する出発点でもある

というのが、私の理解です。






Last updated  2019.01.04 03:27:41
2018.01.04
去年とは書き方が多少違いますが、今回の「紅白」で気になった出演者や話題に関する感想を書きたいと思います:


欅坂46:今回の欅坂は去年と違って私にとっては初めてではなかったので去年のような衝撃はなかったのですが、今回のステージの「不協和音」という曲の歌詞で取り上げられているテーマは本ブログで度々取り上げているテーマと方向性が似ているなと改めて感じました。

パフューム:ちょうど一年前のドラマ・シーズンの「東京タラレバ娘」の主題歌ということもあって(「逃げ恥」のように特にそれほど深く感動したドラマというわけではありませんが)ドラマを懐かしく思い出しながら今回のステージを視聴しました。後、YouTubeのビデオは以前見たことがあったのですが、渋谷の高層ビルの屋上でそのようなステージを行なうと、迫力あるなと思いました。

松田聖子さん:松田聖子さんと言えば、私の場合、第一に頭に浮かぶのは約35年前流行っていた「秘密の花園」と、後、(同じころの)ドリフターズでの志村けんとの共演でしょうか。いずれにしても、ここ何年の「紅白」ではどちらかと言えば、(精一杯頑張っていらっしゃるかもしれませんが)かつてのような輝きやオーラが結構薄れてきたなというような印象でしたが、今回、余りにも鮮烈な形で若返ったように見えたのでちょっとびっくりしました。総司会の内村さんも、そのことにわざわざ注目を集めるようなコメントをしたので、もしかして何か特別なことでもあったのかなと思いました。

アニメ100周年:2017年がそうだったとは知りませんでした。次々と出てきた歴代の名アニメの画像の中に、子供の頃(=1970年代前半)大好きだった科学忍者ガッチャマンの画像も含まれていたので印象に残りました。数年前、当時(=1970年代前半)のビデオがネット上で公開されていることを偶々知って、ネットで調べたところ、(少し時間は掛かりましたが)無数のガッチャマンのヴァージョンの中から自分が見ていたヴァージョンのビデオを何とか探し当て、(もう少しで半世紀前(!)になりますが)私のおぼろげな記憶と全く変わらない主題歌を懐かしく聞いたりしながら再生しました。

福山雅治さん、黒柳徹子さん、郷ひろみさん:福山さんの年齢は私と殆ど変りませんが、一方で、黒柳徹子さんや郷ひろみさんは子供の頃から認識している「テレビのキャラクター」で、子供の私から見てやはり「大人」の代表格のような人たちでした。この二人については特に「ファン」のような気持ちがあったわけではなく、単に「あー、そう言えば、そういう人たちもいましたね」というようなレベルの関心しかなかったのです。でも、今になってみれば、現在のようなご年齢でこれほどもお元気でご活躍されているということは(私自身、体の衰えを感じ始める年齢層に入ったということもあって)本当に凄いなと思いました。後、黒柳さんと福山さんの小学生時代の話を聞いて、(小学校と大学院はもちろんレベルが全然違うわけですが)同じ教育者としての共感を覚え、また現在、私の周辺にいて、様々な問題を抱えながら奮闘している若い人たちに対して自分が(一教員=教育者として)どのように接したらよいか、考える上で参考になる話だなとも思いました。

乃木坂46:「インフルエンサー」という、(うっかりすると、「インフルエンザ」と誤入力してしまいそうな曲名の)曲で大きな賞をとったということで少し注目してみました。去年の「サイマジョ」と違って、個人的には特に感動するような曲ではありませんでしたが、

  「重力」、「引力」、「自転と公転」、
  「離れていたって働き掛けるその力」、
   「存在するだけで影響与えてる」

等、様々な数学的な概念を、踊り・音楽・歌を通して非常に鮮やかに表現できていたことに関心を持ちました。その点では、2017-01-06付けの記事で取り上げた「サイマジョ」と宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)との対応と比較すると、数学的概念の内容は全然違うわけですが、

     踊り・音楽・歌を通して
   難しい数学的な概念を表現している

というところに、以前の記事の比較との類似点があり、このような側面に関心を抱いた背景にある考察について以下ではもう少し詳しく解説してみたいと思います。


まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう

    データ(=「0」と「1」の列)の
         長さは有限

であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)

     有限通りの可能性しかない

ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。

要約すると、

 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,
    JPG, MP3, MP4等)によって、如何
    なる情報の損失も生じることなく(=
    数学用語でいうと、

     数学 ↦ 上記のようなデータ

     という対応は単射になる)、完全に
    記録可能である

という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、

    数学完全に有限なゲームである

という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

  「全ての数学」は、とある有限的な計算

に帰着可能であるということになります。

上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、

    (**)人間の脳に体験可能
     「認識の状態」有限通り
     
しかない

という仮定の下で考えると、

   少なくとも「認識状態歴」のレベルで
   見ると、人類に経験可能な人生は高々
   有限通りしかない

という結論になってしまいます。

もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、

        有限か無限か?

という定性的な性質が一番気になる点になります。

一方、通常の人間的な感覚から言っても、

    「人類に経験可能な人生は高々
       有限通りしかない」、

つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

  一度全部計算して列挙しておけば、人間
  は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら
  生きていく意味がない

等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。

数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

    一度全部計算して列挙しておけば、
    数学者は「わざわざ」様々な苦労
    に耐えながら数学の研究を行なう
    ことに意味がない

といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。

そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった

    上記の(*)や(**)のような
    「有限性仮説」は果たして正しい
    のだろうか、

ということが気になります。

特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)

    どうも正しくないのではないか、 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、

   その「抜け落ちている情報」が忠実に
   表現されている可能性があるように感
   じる別系統の媒体=例えば、
   ・2017-01-06付けの記事で取り
    上げた「サイマジョ」、
   ・2017-11の二つの記事で取り上げた
    「芸術」や「バベルの塔の説話」、
   ・今回の記事で取り上げた
    「インフルエンサー」

の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。

ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、

   何故に同一のPDFファイル等のデータ
   を入手しているにも拘わらず、ある
   数学者にはそのデータに記録されて
   いることになっている数学が比較的
   容易に伝わっているのに、別の(同一
   の専門分野のはずの)数学者には同じ
   データに記録されているはずの数学
   がいつまで経っても伝わらないか

という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。






Last updated  2018.01.04 16:45:39
2017.11.21
まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:

・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。

・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。

「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「​ラッセルのパラドックス​」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。

・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。

・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。

・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと)

   まさに心ならずも発生してしまった
   複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明
   な
「線型的」な秩序を確立するため
   の(不適切かつ極めて非建設的な!)
   措置として講じられる

ことが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。

今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。

先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、

 (*) 言いたいことが山のようにあって、
  しかも、それを何としても日本語で表現
  
しないと気が済まない

ということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では

 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」
 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、
 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」

が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて

  数学的な内容の

        論理構造
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は

 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に
 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」
 と誤解しがち

ですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、

 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む
 ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、
 むしろ「不幸への暴走特急」

にしかなりません。つまり、

 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS
 はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理
 構造を上手く分割したり整理したりするための
 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様
 のOS

なんです。
  
上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない

等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界を発掘できるかもしれない

といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点宇宙

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」

の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系」

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」


   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。

子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマ
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。

一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における

  「対米(あるいは場合によっては対欧米
    従属の文化

という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。

私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、

    「日本人の心の中の米軍基地

とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間」

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学」

ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している

ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。






Last updated  2017.11.27 16:22:13
2017.11.14
先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。

私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、

    何で旅行や国際交流が苦手か?

と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。

先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」

 『どうも日本の人は「自分がアジア人で
  ある」ことがピンとこないらしいのね。
  不思議』

に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。

私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる

        「精神世界」

が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、

  「国境・国籍を放棄する
    =その人を自分と同じ国の人に思う」

あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、

   「その人を(自分から見て)‘外国人
    =異邦人’と呼ぶ(=として扱う)
    権利・権限を放棄する」

ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、

    「どうしても譲れない一線」

であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。

また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、

   「ザ東洋人男性」(=例えば
         「チン」という名前の)

というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。

つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。

少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります:

  そのような方は人類の様々な既存の文化を
  堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、
  整理し、演出する)

ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ

 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」
 として認識し)なるべく自らの個人的な世界
 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら
 の手で創作する

ことに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。

再び

    何で旅行や国際交流が苦手か?

という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の

       「費用対効果」

(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。

例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。

一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも

  遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、
    私は自分の心の中で旅している

(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。

更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、

  異国の人間を取り巻く状況や精神世界は
  単純な「データ」・「抽象的な論理体系」
  として扱うという立場で考えても、複雑
  度の「爆発」が圧倒的すぎて

      人類の脳の処理能力

  を遥かに超過してしまっているため、相手
  のことを、

       極めて低い解像度

  でしか認識・理解することができません。

一方、相手に対する

        「認識解像度」

が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、

 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなく

なってしまいます。

つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する

     人類の脳の処理能力の限界

にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には

             一種の数学の問題

であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)

更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる

              バベルの塔

の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「​バベルの塔」​の展覧会が開かれたりして話題になっています。​百科事典​等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします:

 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する
  と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪
  を描いている。」

誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、

  多くの芸術作品や文学にしても、古代から
  伝わる神話や物語にしても、人間が直観的
  
なレベルにおいて実質的に感じ取った

      一種の数学的な原理

  を(現代数学で用いられるような定式化の
  技術がなかったために)何とか後世に伝達
  できるように表現し、記述するための手段
  として創り出されたものが多いのではない
  でしょうか。

つまり、そのような様々な文化遺産は、

    一種の「数学的な予想」の宝庫

として捉えることが出来るのではないしょうか。

例えば、「バベルの塔」の場合ですと、

 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、
 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして
 も、それは本質的に数学的に不可能であり
 (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し
 ない)、どんなに努力して回避しようとして
 も民族・言語の多様性は必然的に発生する
 ものである

という、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。

この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「​ラッセルのパラドックス​」、つまり、

 「自分自身を元として含むような集合、例え
  ば、全ての集合をその元として含むような
  集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると
  仮定すると矛盾が生じる」

で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「​結婚論​」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。

一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない

            「壁」を設定する

ことが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その

     壁の向こう側に通用する=
       通り抜けることができる

特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。

このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、

 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」
 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、
 そのようなものの間の

      「壁」に飢えている

 体質の生き物として育ってしまいました。

私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、

 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」

ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)

ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの=

  長期的な、安定的な平和を大切にする、
   全体的に友好的で開かれた姿勢、

あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、

 「お互い様」、「お世話様」といったような
 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある)
 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の
 下で運用
されるを目指す姿勢

も本質的に重要であることを見失ってはいけません。

最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   「ただのデータ」の保管用に用意され
   ている)Dドライブ

に、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   オペレーティングシステム(OS)
   収容されている)Cドライブ

に取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。

つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。

旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。






Last updated  2017.11.16 04:15:47
2017.10.19
ご無沙汰しております。

書きたいことがいろいろあるのに、仕事で忙しくて書く時間がとれないのは実に残念ですが、今日は、二週間程前から続いている本ブログの読者の方(=米国在住の日本人の方=以下では「Aさん」)とのメールのやりとりの抜粋を(読者の方にご了承いただいた上で)次の通り、公開させていただきたいと思います:



>私のまわりの精神障害のある作家は、きら
>めきがあっても陽の当たらない人が多い
>です。望月先生が、日陰の人の中にまぶしさ
>を感じるのは、どのような時(人)ですか。

短い文章ではありますが、上記のご感想・ご質問だけで私がブログを通して発信しようとしているメッセージ(=より正確に言うと、数々のメッセージのうちの一つ)がAさんにかなり忠実に伝わったようで、とても感動致しました。本当にありがとうございます。

よく思うことの一つですが、数学の研究の中でも最も核心的に重要なものは「~予想」というような名称のついている有名な予想・未解決問題等ではなく、むしろ、

(*)「何で数学が人類にとって本質的に必要
   不可欠なものであるか」ということを、
   どうやってより明示的な形で一般社会
   に対して示すことができるか

のような問い掛けだと思います。

別の言葉でいうと、人類は人類にとってまさに

             「異星人」

であり、その「異星人ぶり」は国家間、民族間、世代間といったような場面において如実に現れがちなものですが、もう一つの非常に重要な場面はまさに

 「(いわゆる)健常者 対 
        (様々な種類の)障害者」

の間にある壁だと、個人的に以前から強く思っております。

この様々な意味での「異星人」(=即ち、様々な種類の壁の向こう側にいる人間・知的生命体)の心に通用する言語は無数の社会的偏向(=「不純物」)に塗れた普通の(英語や日本語等のような)自然言語ではなく、

 人類の脳内で動作する数々の認識の仕組み
 の抽象的な論理構造の解明を、(ある意味)
 その本質的な使命とする(学問分野でもあり、
 一種の「言語」でもある)数学

だと思っております。まさにそのために数学の研究は歴史的に見ても、また人類の現在や未来を考えても、人類にとって本質的に必要不可欠なものだと考えております。

元々のAさんのご質問

>望月先生が、日陰の人の中にまぶしさを感じるの
>は、どのような時(人)ですか。

に対する答えになっているかどうか、余り自信がありませんが、私が様々な状況の下で「日陰の人の中にまぶしさを感じる」のは、邪魔になりがちな無数の社会的な物差し・基準等を無視し、忘却した上で、より原始的な、抽象的な(=つまり、「数学的な」)論理構造だけを見てその人のことについて理解しようとするときだと思います。



>ブログの「数学界にとっては事実上、ゴミ」の
>人材を育成した記事は、実体験とも重なって感動
>しました。忠実に私に伝わったのは、先生の文章
>が正確で心がこもっているからだと思います。

ありがとうございます。

>豊かな人材を溝捨てする平らな物差しが、複雑
>な形に伸び縮みすれば、異星/国/民人とも、障害
>者とも、お互いの眩しい部分を計り合って生きて
>いけるのかもしれません。先生の返信を読んで、
>そこに数学があることを、初めて意識しました!

そうでしたか。

私としては、数学の「ポイント」はまさにこのような側面にあるという認識ですので、(昔から感じていることではありますが)数学の研究の意味が一般社会ではやはりかなり本質的に誤解されているということになるかと思います。このような状況ですと、益々ブログ関連の活動に力を入れたくなります(!)。(そのような活動に割く時間がないのは実に残念ですが。)

>>私が様々な状況の下で「日陰の人の中にまぶし
>>さを感じる」のは、邪魔になりがちな無数の社会
>>的な物差し・基準等を無視し、忘却した上で、
>>より原始的な、抽象的な(=つまり、「数学的
>>な」)論理構造だけを見てその人のことについて
>>理解しようとするときだと思います。

>この視点をもち、かつ行動に移せる人はまだまだ
>少数なのかもしれません。望月先生の「本音」
>が、読者のこころに種を蒔いていると思います。

ありがとうございます。読者に対してそのような効果があるとすれば、ブログ初心者としては嬉しい限りです。

>アメリカは確かに無駄な”ワンクリック”情報戦に
>溢れる国です。ただ「日陰の人に対しての行動」
>に自信が持てたこの国には、感謝する部分もあり
>ます。

米国には(私自身、お世話になった)「ご立派」な面があり、それを無理に否定するつもりは毛頭ありませんが、「ご立派」には程遠い面も少なからずあることも紛れもない事実であり、私の場合、長年にわたる数々の国の方との無数の交流の経験を経て辿り着いた結論としては、米国をはじめ、諸外国に対しては、

    全体的に友好的な、開かれた姿勢

を保ちつつ、
       
       一定の距離を置く

ことは、決して拳を振り上げるような、いわば「盾を突く」ような好戦的な姿勢ではなく(=そのように誤解されたりすることもあるようですが)、むしろ相手の文化や内面的な世界と誠意をもって真剣に向き合った経験から生まれた、

   長期的な、安定的な平和を愛する姿勢

であると考えております。






Last updated  2017.10.19 14:06:07
2017.05.07
2016-12-18付けの記事でも本ブログの名称について少し言及しましたが、この名称を思い付いた経緯についてもう少し詳しく説明しますと、実は、次のような幾つかの「要素」・「イメージ」がうまく嚙み合わさってできた名称なのです:

・思い付いた時期は2016年11月、つまり、ドラマ「逃げ恥」を毎週見ていた、というよりも強く意識していた時期でした。特に、2017-05-06付けの記事でも言及したみくりの幾つかの妄想シーンに出てくる「政治演説」を見て、私も正にこのドラマで訴えられていた数々のテーマ(=あるテーマについては2017-05-06付けの記事をご参照下さい)に対して自分の「心の一票」を投じたいなという気分にさせられました。

・『新一の「心の一票」』、つまり、

   「新・一・心・一」
     =「しん・いち・しん・いち」

という字面の見栄えというか、対称性に引かれました。

・新垣結衣さんが出演するバライエティ番組等で度々話題に上るペットの「トカゲモドキ」ですが、最初この話、特に、新垣さんが毎日檻の中にいるトカゲモドキに生きたコオロギを餌として与えているという話を聞いたとき、どちらかというと、私が新垣さんに対して持っているイメージにそぐわないという、違和感・不快感がありました。しかし、ペットの名前が

      「心(しん)ちゃん」

だという話を聞いたとき、(トカゲモドキそのものに対しては個人的にはやはり魅力を感じないという気持ちは変わりませんが)やっと新垣さんの気持ちが分かったような気がしました。自分自身、子供の頃、よく周りの大人から「しんちゃん」と呼ばれたりしていたわけですが、その「しんちゃん」の響きがもたらした心理的効果と、後、「しんちゃん」の「しん」として「新」など普通の男子の名前に出てきそうな字だけでなく、「心」も有り得るのだという発見の新鮮さによってこの新垣さんのペットの話が印象に残りました。

こういうふうに書くと、「逃げ恥」ファンは、まるで檻の中で生活する新垣さんのペットのようなもので、週一回の「逃げ恥」という「餌」を与えられては何とか次週まで生き長らえていたような、ちょっと情けないイメージになってしまいますが、ドラマ放送当時、ネット上のいろいろな書き込みを読んでいると、どうもそのような精神状態の視聴者が全国に相当数いたらしいです。あるいは、別の視点に立つと、新垣さんが多くの国民から大変な愛情を注がれる立場にあり、その新垣さんが心ちゃんに大変な愛情を注いでいるという状況を総合的に考えると、(まだ生きているかどうか分かりませんが、少なくともご存命中は)心ちゃんはある意味、日本の社会の中ではとてつもなく偉い立場にある(あった)ことになります。








Last updated  2017.05.09 18:14:04
2017.05.06
昨年秋、放送されていた当時、(恥ずかしながら(?)、私も含め)皆あんなに「熱狂的に」盛り上がっていたのに、いつの間にか忘れ去られ掛けている感のある、ドラマ「逃げ恥」。私も今年に入ってからは何度か主演の新垣結衣さんが賞(=コンフィデンスドラマ賞+日刊スポーツ・ドラマグランプリ賞)を受賞したという報道や、YouTubeの関連動画の広告に接したりして偶に懐かしく思い出す程度です。以前(=2017-01-04付けの記事)から予告している通り、このドラマの感想について(本当は感想の「テーマ」が多すぎるので)少しずつ整理しながら書きたいと思います。

今の時代の日本の社会を見渡すと、みんな「身を粉にして」せっせと働いているのに、全体的に余り豊かさを実感できない状況の下で生活している、というような趣旨の「暗い」報道(=「ブラック企業」や過労死から結婚・出生率の低下、待機児童の問題、子供の貧困、若者の就職難等)が非常に多いように感じます。一方、そのような「俯瞰的な」、「マクロ」の視点ではなく、個人個人の「ミクロ」のレベルで社会(=特に自分の普段の生活の中で接する人間)を観察していると、(場合によっては)逆にこの国の人的資源の豊かさに寧ろ感動するような場面がしばしばあるのは私だけではないのではないでしょうか。そうすると、この「マクロ対ミクロ」の落差は一体どのような原因によってこれほども激しい形で発生してしまうのだろうか、解明したくなります。

この「マクロ対ミクロ落差」はドラマ「逃げ恥」の主要なテーマの一つだったように思います。大学院卒でありながら就職活動が上手くいかない、しかし様々な面においては本当は眩しい位の優れた「人的資源」ともいえる森山みくり(新垣結衣)がある意味、この「マクロ対ミクロ落差」の「代表格」・「リーダー格」ではないでしょうか。実際、みくりの数々の妄想シーンの中でも何度か登場するみくりの「政治演説」のようなものも、みくりという登場人物に託されたこのような「指導的な」役割を物語っているように感じます。一方、他の登場人物(=津崎平匡、土屋百合、沼田頼綱、風見涼太、堀内柚、梅原ナツキ)も、みくりほどの「眩しさ」を付与されていなくても、様々な舞台における、「残酷な社会的・マクロ的評価」対「個人としての尊さ・資質」の落差を描くための、一種の「道具」として登場させられているように思いました。

では、この「マクロ対ミクロ落差」はどのようにして発生しているかということについて突き詰めて考えると、

   個人が学校や就職先、公的機関等で、
   (多くの場合、不適切に)画一的な
   基準・物差しによるマクロ的・社会的
   評価

を受けて人生が大きく左右される場面に晒されながら生きていかなければならない立場にあることが基本的な原因ではないでしょうか。とすると、このようなマクロ的・社会的評価の際に適用される基準・物差しの内容にポイントがあるということになります。つまり、ドラマ「逃げ恥」の大きなメッセージの一つは、みくりを筆頭に、様々な境遇に置かれている登場人物たちに代表されるような事例では、

  実態からして極めて不適切な基準が適用
  されていることによって社会は多くの貴重
  な人材、ひいては貴重な「富」をいわば
  「溝に捨てている」ぞ!

という内容のものではないでしょうか。

少し話しが変わりますが、同様な「メッセージ」・「パターン」の事象として次のようなものが頭に浮かびます:

・何年か前にアフリカの有名な女性活動家が国連での演説の中で「モッタイナイ」という日本語を使ったことがきっかけで「モッタイナイ運動」のようなものが世界的に広がったという話を思い出します。

・人的資源ではなく食料資源の話になりますが、いわゆる「食品ロス」の問題(=つまり、本当はまだ様々な用途に使用可能なのに消費期限が来たという理由だけで大量に廃棄される食品の問題)も連想させられます。言い換えれば、社会は重大な「人材ロス」問題を抱えており、その問題への対応の甘さが社会の様々な場面において大変な「貧困」を生み出しているということになります。しかも、いわゆる「頭脳流出」という現象と違って、海外に出ることによって解決する性質の問題ではなく、貴重な人材がただ十分に活用されないまま生涯を閉じることになるだけです。

・社会が、個人の尊さや資質の実態と乖離した、不適切に「狭い」基準・物差しに拘ることによって、逆に社会全体にとっての大きな損失や様々な形の「貧困」を生じているという構図を考えると、近年多発している高齢運転者による交通事故の原因の一つとして(認知症と共に)指摘される「視野狭窄」を想起させられます。つまり、社会が、数々の場面においていわば深刻な「視野狭窄」を起こすことによって(社会全体にとって)悲惨な「自損事故」を多発しているということです。

一方、視点を変えて上述のような社会問題・状況に対して

      自分には何ができるか?

という観点で考えると、まず頭に浮かぶのは、

  数学界の(学生あるいは研究者に対する)
  評価基準には無数の「歪み」や「不具合」

があり、その歪み・不具合によって数学界も社会全体も莫大な損失を被っているように感じるという、自分の日常生活ともこれまでの人生とも密接に絡む状況です。もちろんこのような状況に対して自分一人でできることには非常に限界があることを自覚しなければなりません。しかし、個人名や他の詳細を書くと問題視されるでしょうから差し控えますが、私は学生に対する評価の際においても、若手研究者の就職・採用に関わる評価の際においても、一般的な基準と大きく異なる基準を適用することによって、一般的な基準では

  「間違いなく不適格=数学界にとっては
   事実上、ゴミ」

に等しい烙印を押された人材を拾い上げて育成し、最終的には、

  実態からして一般的な基準よりも遥かに
  実質的な基準において立派な水準の人材
  に育て上げる

ことを何度も経験しており、その人材の目覚ましい成長ぶりに度々感動を覚えさせられたことだけは書かせていただきます。

最後に、2017-01-06付けの記事の例に倣って、ドラマ「逃げ恥」と私の研究=IUTeich(宇宙際タイヒミューラー理論)との、興味深い接点・類似点について解説してみたいと思います:

・まず、上述の「マクロ対ミクロ落差」ですが、これは言い換えれば、「個人」対「社会=集団=群れ」という数学的な構造問題と見ることができます。このように考えると、IUTeichに出てくる『「単解的構造」対「正則構造」』の'緊張関係'に対応していることになります。このような側面については2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。

・上述の議論では言及しなかった側面ですが、「逃げ恥」では、少なくともみくりと平匡の場合の「マクロ対ミクロ落差」問題に対する「突破口」として浮上するのは「契約結婚」という形の対応であり、このような「突破口」を採用することによって発生する様々な結果への対処が正にドラマのストーリー展開の基本ともいえます。このように、難しい問題に対して、最初から完璧な「模範解答=満額回答」を求めずに、寧ろ、一種の

  「仮想的な満額回答」を勝手に宣言し設定
  した上で、その「仮想的な満額回答」に
  よって生じる「歪み・不具合・誤差」を
  計算する

という筋書きは正にIUTeichにおける「Θリンク」(=「仮想的な満額回答」)と、そのΘリンクによって生じる「歪み・不具合・誤差」を、アルゴリズムによる明示的記述を用いることによって計算するという展開とそっくり(!)です。つまり、標語的なレベルで整理すると、

  「契約結婚」=「仮想的満額回答の設定」
        =「Θリンク」

といった寸法になります。IUTeichのこのような側面についても2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。







Last updated  2017.05.07 19:48:15
2017.01.06
まず、2年程前の話になりますが、2014年の年末にDIGAの全録機をネットで購入して偶々12月31日に届いたのですが、箱から出して初期設定を済ませるのに少し手間取って、やっと使えるようになったときには午後10時を過ぎていたと思います。「動作確認」のつもりで付けてみたら、ちょっとびっくりするような映像が目に飛び込んできました。何と、あの(iPS細胞の)山中伸弥先生らしき人物がNHKの紅白歌合戦の観客席に座っているではありませんか!確認してみたら、山中先生はどうも実際にその年の「紅白」の審査員の一人になっていました。山中先生が度々ニュース番組等に出演されているのを知っていたのですが、まさか「紅白」の審査員のような活動までされているとは、私にとってはかなり衝撃でした。私も以前から何度かテレビ出演の依頼がありましたが、全部断っています。山中先生の「紅白」出演を批判するつもりは毛頭ございませんが、とにかく自分だったら嫌だな、とても考えられないなと思いました。

私の場合、プリンストン(の大学・大学院)にいた頃(=1985年~1992年)は、当然インターネットというものはまだ存在しませんでしたし、ケーブルテレビで見られる日本の番組は非常に限られていました。その数少ない番組の一つが「紅白」だったので(多分)毎年見ていたと思います。京大の助手になって京都に住むようになってからはあまりよく覚えていませんが、20代の半ば頃までは時々見ていたような気がしますが、その後は見ていなかったと思います。つまり、上述の「衝撃の動作確認」は私にとって恐らく約20年振りの「紅白」になったと思います。

いずれにしても、その「衝撃の動作確認」がきっかけで、それ以降(の3回)は「紅白」を見ています。(ただ、リアルタイムで見るのではなく、数時間遅れで、しかも(長いので)適当に先送りしたりしながら見ています。)つまり、純粋に「営業」的な視点に立つと、山中先生の審査員としての起用によって私という人間に対する「集客力」が働いてしまい、結果的には私も「紅白」を見るようになってしまったということになります。

前々回の「紅白」(=第65回)では多分一番印象に残った演出は、(そのときまで関心がなかった)椎名林檎さんと、(80年代初頭の「セーラー服と機関銃」の頃から好きだった)薬師丸ひろ子さんだったと思います。前回の「紅白」(=第66回)も椎名林檎さんの演出が一番印象的でした。

一方、今回(=第67回)は椎名林檎さんの演出には(なぜか、上手く説明できませんが)余り関心が持てませんでした。今回一番印象に残った演出を列挙すると次の通りになります:

 ・欅坂46の「サイレントマジョリティ」、
 ・乃木坂46の「サヨナラの意味」、
 ・ピコ太郎さんのゴジラ撃退とそれに対する
  (審査員の)新垣結衣さんの反応。

もう少し詳しく説明しますと、まず3番目の項目ですが、昨年秋のドラマ「逃げ恥」がきっかけで今回審査員を務めた新垣さんに注目していましたが、残念ながら全体的に(=星野源さんの「恋」の演出のときも含めて)新垣さんの存在感が非常に薄くてちょっとがっかりしました。ただ、ピコ太郎さんのゴジラ撃退の歌のときの新垣さんの、笑いを堪えているような呆れた表情が印象的でした。そもそもピコ太郎さんのあの間抜けな演技が何でここまで世界的に人気を博すに至ったか、私としては以前から不思議でなりません。ピコ太郎さんのゴジラ撃退の演出の中に、ピコ太郎さんの不可思議な人気ぶりこそ日本の芸能界にとっては正に一種のゴジラのような存在だ、というようなメッセージが込められていたかもしれません。

ピコ太郎さんの例の間抜けな演技を見てちょっと思ったのですが(といっても、念のため、 本気で思ったわけではありませんが!)、私の場合、自分の研究の解説の仕方が世界的にこんなに不評なのに、何でこのピコ太郎さんの間抜けな演技がこんなに世界的に受けるのだろう、私も、ピコ太郎さん風に

 「アイ・ハブ・ア・ログ」、
 「アイ・ハブ・ア・テータ」、
 「ログ」、「テータ」、
 「ログ・テータ」

なんて歌ったら世界的に受けるのでしょうか。

いずれにしてもこの3番目のピコ太郎さんの場合は、どちらかというと、「逆説的」な意味で印象的でしたが、2番目の乃木坂46と1番目の欅坂46の方は、普通の肯定的な意味で印象的でした。乃木坂46も欅坂46も、名称は以前から認識していましたが、曲を聴くのも、演出を見るのも、センターの橋本奈々未さんや平手友梨奈さんの存在を知ったのも、今回の「紅白」が初めてでした。昔からあった「無邪気な少年」のような気持ちで楽しむことができただけでなく、若い頃の自分とはちょっと違う気持ちも芽生えているように感じました。それは一言ではちょっと言い表しにくいのですが、元気な若いメンバーたちの「キレキレ」の踊りが、一種の宗教的な儀式というか、「弾ける若き生命力の祭典」のようにも見えました。よく考えてみれば、「アイドル」の語源は正に「崇拝する対象」という宗教的なニュアンスがあるわけですが、今回の「紅白」のこれらの演出で私の目に眩しく映った「崇拝の対象」が、年齢の所為か、(「アイドル」の本来のニュアンスと思われる「異性としての魅力」から)「若き生命力」に移行しつつあるように感じました。

2番目の乃木坂46の「サヨナラの意味」については、ネット検索で見付けた動画の中で「紅白」の演出に一番近いのはこの動画です。(ただし、「紅白」の演出になかった「ブランコ」という曲も後ろにくっついていますが。)一方、1番目の欅坂46の「サイレントマジョリティ」(以下では「サイマジョ」(='才姫'ならぬ'才魔女'?)と書くことにします)については、「紅白」に一番近いのはこの動画でしたけど、その他にもこのような拡大版も見付かりました。

今回の「紅白」全体の中でも、私にとって圧倒的に一番印象的だったのは、この「サイマジョ」(=特に拡大版)の歌詞でした。「前置き」が少し長くなってしまいましたが、本当はこの歌詞こそが、今回の記事の執筆に踏み切った一番のきっかけでもあり、また記事の本題でもあります。

歌詞にそこまで感動した理由ですが、今でもまだ分析でき切れていないような気もしますが、大体次のような理由になります:

メッセージの方向性が昔とだいぶ違う:私はもちろん専門家ではありませんし、ちゃんとした系統的な調査をしたわけではありませんが、私の記憶では、本来アイドルが歌うような曲に込められたメッセージ(=若い世代に向けられたメッセージ)は、

 「社会の主流='群れ'について行け、ついて
  行けばこそ歌っているアイドルさんのよう
  な素敵な恋人が待っている」

というような内容ではなかったのでしょうか。それに対して、「サイマジョ」の歌詞は正におよそ正反対のメッセージ、つまり、「群れについて行くな」 ― 歌詞のレベルでいうと、

 「この世界は群れていても始まらない」、
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、
 「人の数だけ道はある」

― という内容になっていて初めて聞いたときは(よい意味で)衝撃でした。もちろん、「サイマジョ」の方が遥かに健全な内容になっていて、そういう意味では「サイマジョ」の対象世代の若い人たちは恵まれた時代に生まれたんだなと思いました。

メッセージの内容は本ブログの様々な指摘と重なる:先ほど引用した歌詞は(本ブログ)2017-01-02付けの記事の「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」といったような理想、もっと言うと私がこれまで自分の研究、あるいは生き方そのものに込めた気持ちを奨励しているような内容とも言えますし、また

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」
 
といった歌詞は、(本ブログ)2017-01-04付けの記事の『私の「心の一票」』という項目で解説している考え方(=正に本ブログの名称の由来!)と見事に(!)重なります。

メッセージの内容は宇宙際タイヒミューラー理論の内容・'筋書'に見事に対応している:一般に、個人がどの程度

 「社会の主流=群れ」について行くべき

で、どの程度

      わが道を行くべきか、

つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、

     「(数論的)正則構造

と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、

       「単解的構造

と呼ばれるものに対応しています。歌詞の

 「誰かの後について行けば傷つかない」、
 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」

という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、

 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、
 「大人たちに支配されるな」

という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)「デルタ関数」(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを

 「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか」

という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、

 「何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにΘリンク
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある」

という状況に見事に対応しているように思います。また

 「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる」
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

 「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的
  数論幾何の常識(='ルール')が通用しない
  単解的な道を進むしかない」

というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。とにかく、歌詞が細部まで余りにも見事にIUTeichの理論の展開に対応していることに気付いたときはとても興奮・感動してしまい(かなり「特異性の高い」お正月休みの過ごし方だと思いますが)、その興奮・感動を読者の皆さんと分かち合いたくなりました!

最後に、ここまで来ると、改めて指摘するまでもないと思いますが、上記のような観察は、世界広しと言えども、私以外の人間が考え付くとはちょっと信じ難い、という状況を考慮すると、やはり(本ブログ)2016-12-18付けの記事の「特異性」の話にあったように本ブログの主の身元を隠す努力をすることには意味がないと思わざるを得ません。






Last updated  2017.12.22 00:11:22
2017.01.02
元日は富士山の初日の出を羽鳥慎一さんの新春番組で見ました。ここ数年はこの番組を見ていますが、昔から似たような新春番組を見ています。

しかし昔から似たような番組で似たような光景を見ているにもかかわらず、元日にこの富士山の初日の出の様子を見て新鮮な気分になるのはとても不思議な現象のようにも感じます。富士山を取り巻く自然環境にはそれだけの「重み」というか「神秘性」があるということでしょうか。

ちょっと話が変わりますが、一昨年(=2015年!)の10~11月、静岡の親戚を訪問した際に、静岡県の「望月」と長野県の「望月」の関係や違いがちょっとだけ話題になりました。私も、(ちょっと意外なことに)先方も、このようなテーマについては深い専門的な知識があるわけではありませんが、長野県は「望月町」という場所が(少なくとも昔は)ありましたし、長野県の方が古いという話をしました。一方、長野県での苗字別の人口分布をネットで調べると、「望月」は何と92位(!)であるのに対し、静岡県でも山梨県でも(静岡県の場合は、「鈴木」、「渡辺」、山梨県の場合は「渡辺」、「小林」に次いで)堂々の3位であるだけでなく、(私の親戚が代々暮らしている)静岡市では、(ダントツ!)1位なんですね。実際、現地へ行ってみると、初めての人は驚くと思いますが、すごい「望月王国」なんです。

何でこのような状況になったのか、あるいはこの状況にはどのような意味があるか、ということについて昔から(歴史的な専門知識が全くない)素人の立場から気になっています。とにかく専門家ではないので、自説を書くのも恐縮ですが、次のような「仮説」を立ててみたくなりました:

 日本には様々な「都」、つまり政治の「都」の
 東京、商売の「都」の大阪、文化・芸術・学問
 の「都」の京都等、がありますが、静岡市と
 いうべきなのか、富士山というべきなのか、は
 日本の

       「地形学的な都」

 であるという見方ができます。正確な地図やGPS
 等がなかった戦国時代の乱世の状況、つまり、
 戦乱によって自分の故郷が滅ぼされたり、いき
 なり遠いところに簡単に流されたりすることが多
 かった状況に置かれていると、(少なくとも本州
 の)どこにいても、「自分はあそこに見える、
 あの富士山辺りの出身の人間だ」と胸を張って
 言える身分というのは結構魅力だったのではない
 でしょうか。別の言い方をすると、静岡市に
 おける望月姓の「類を見ない一極集中」的な状況
 は、他の「都」のように人類社会の荒波に左右
 されることのない、つまり時の権力者ではなく、
 人類社会を超越した'自然界'が常に絶対的に保障
 してくれる

  究極的に中心的な、核心的なところ=富士山

 にどんと構えていたいという強い欲求・志向から
 生まれた状況ではないでしょうか。

このような状況に対して批判的なネットの書き込みもあるようですが、私は昔からこの状況に対して(自分自身は静岡に在住したことがありませんが)何とも言えない「ロマン」を感じています。

後、もう一つ以前から強く感じていることを書きますと、自分の数学の研究(=遠アーベル幾何や宇宙際タイヒミューラー理論等)を巡る社会的な状況、つまり、国内外の多くの数学、あるいは数論幾何の研究者から見て、

   数名の協力者で固めて築き上げた
  「隔絶した異世界=一種のガラパゴス

を私が数十年掛けて創り上げたことも、上記の静岡県の「望月」を巡る状況を生じさせたのと、同系統の遺伝的傾向・志向の現れではないでしょうか。






Last updated  2017.01.03 07:12:27

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