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2017.01.02
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元日は富士山の初日の出を羽鳥慎一さんの新春番組で見ました。ここ数年はこの番組を見ていますが、昔から似たような新春番組を見ています。

しかし昔から似たような番組で似たような光景を見ているにもかかわらず、元日にこの富士山の初日の出の様子を見て新鮮な気分になるのはとても不思議な現象のようにも感じます。富士山を取り巻く自然環境にはそれだけの「重み」というか「神秘性」があるということでしょうか。

ちょっと話が変わりますが、一昨年(=2015年!)の10~11月、静岡の親戚を訪問した際に、静岡県の「望月」と長野県の「望月」の関係や違いがちょっとだけ話題になりました。私も、(ちょっと意外なことに)先方も、このようなテーマについては深い専門的な知識があるわけではありませんが、長野県は「望月町」という場所が(少なくとも昔は)ありましたし、長野県の方が古いという話をしました。一方、長野県での苗字別の人口分布をネットで調べると、「望月」は何と92位(!)であるのに対し、静岡県でも山梨県でも(静岡県の場合は、「鈴木」、「渡辺」、山梨県の場合は「渡辺」、「小林」に次いで)堂々の3位であるだけでなく、(私の親戚が代々暮らしている)静岡市では、(ダントツ!)1位なんですね。実際、現地へ行ってみると、初めての人は驚くと思いますが、すごい「望月王国」なんです。

何でこのような状況になったのか、あるいはこの状況にはどのような意味があるか、ということについて昔から(歴史的な専門知識が全くない)素人の立場から気になっています。とにかく専門家ではないので、自説を書くのも恐縮ですが、次のような「仮説」を立ててみたくなりました:

 日本には様々な「都」、つまり政治の「都」の
 東京、商売の「都」の大阪、文化・芸術・学問
 の「都」の京都等、がありますが、静岡市と
 いうべきなのか、富士山というべきなのか、は
 日本の

       「地形学的な都」

 であるという見方ができます。正確な地図やGPS
 等がなかった戦国時代の乱世の状況、つまり、
 戦乱によって自分の故郷が滅ぼされたり、いき
 なり遠いところに簡単に流されたりすることが多
 かった状況に置かれていると、(少なくとも本州
 の)どこにいても、「自分はあそこに見える、
 あの富士山辺りの出身の人間だ」と胸を張って
 言える身分というのは結構魅力だったのではない
 でしょうか。別の言い方をすると、静岡市に
 おける望月姓の「類を見ない一極集中」的な状況
 は、他の「都」のように人類社会の荒波に左右
 されることのない、つまり時の権力者ではなく、
 人類社会を超越した'自然界'が常に絶対的に保障
 してくれる

  究極的に中心的な、核心的なところ=富士山

 にどんと構えていたいという強い欲求・志向から
 生まれた状況ではないでしょうか。

このような状況に対して批判的なネットの書き込みもあるようですが、私は昔からこの状況に対して(自分自身は静岡に在住したことがありませんが)何とも言えない「ロマン」を感じています。

後、もう一つ以前から強く感じていることを書きますと、自分の数学の研究(=遠アーベル幾何や宇宙際タイヒミューラー理論等)を巡る社会的な状況、つまり、国内外の多くの数学、あるいは数論幾何の研究者から見て、

   数名の協力者で固めて築き上げた
  「隔絶した異世界=一種のガラパゴス

を私が数十年掛けて創り上げたことも、上記の静岡県の「望月」を巡る状況を生じさせたのと、同系統の遺伝的傾向・志向の現れではないでしょうか。





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Last updated  2017.01.03 07:12:27



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