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「世に読書人多くして真の学者なきものは、学を為すの初め、その志すでに誤ればなり」
〈世の中に本を読む人が多いのに真の人物がいないのは、学問をする最初にその志がすでに間違っているからである〉 これは幕末の維新の志士、吉田松陰が言った言葉である。 正しい志とは人間としての正しい道、つまり正しく人生を歩む為の道を明らかにする学問・勉学である事を思い定める事であって、いかに読書し勉強しても正しい道を知らないのなら、学問・勉学したとはいえないのである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 本当にその通りだと反省した。よく学生時代に(社会人でもそうだけれども)多くの「資格を取る」人がいる。聞いてみると「たくさん資格を持っていると、何かの役に立つものよ」などと言っていた。 しかし、そういう人の多くは「資格を取る」のが目的であって、後に聞いてみると、その資格のほとんどが役に立っていない場合が多かった。(資格をとる為に努力をする、その努力の姿勢は素晴らしいが) それに反して、全くそれまで資格などもっていなかった人が、ある仕事に携わり、その仕事の中で必要な資格を実践の中で身につけていった方が仕事上でも人生の上でも自分の身になっているようである。 読書にも同じ事が言える。「本を読む事」が目的となってしまい、何の為に読んでいるのか、また自分自身が「何をしたいのか」「何故それをしたいのか」もわからず「志(こころざし)」というものが心に無ければ、どのような読書をし、学問をしても所詮は、人の意見に感銘し共感をする程度のものではないか。猛反省をさせられた。 確かに、読書は人との出会いに良く似ている。どのような人(本)とめぐり合うかによって人生の豊かさが変わってくることも事実だろう。しかし、人と出会って、人に感動しているばかりでは、いつまでたっても真の自分自身とはめぐり合う事はできない。自ら学問し、実践し、自分自身の生き様の中でそれ(自らの歴史)を作り上げていくからこそ、人が感動するのである。 果たして自分自身の志はどうであったか。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「井を掘るは水を得るためなり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば掘る事深しと言えども、井とするに足らず。道を得ざれば講ずること勉むと言えども、学とするに足らず」 〈井戸を掘るのは水を得るためであり、学問をするのは人の生きる道を得るためである。水を得ることができなければ、どんなに深く掘っても井戸とは言えぬように、たとえどんなに勉学に励んでも、人の生きる正しい道を知ることがなければ、学問をしたとは言えない〉 何故人は勉強するのか。何故自分自身は読書するのか。学問するのか。 今一度自分自身に問いかけてみる機会を得たことに、感謝したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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