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マヤ夫の世界史授業(平成)

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2016.07.16
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現在、私の勤務校は「面談週間」で午前授業。ですから、授業がつぶれて困っています。クラスによって進度に相当差が出ていますが、一番進んでるクラスに合わせて更新することにしました。
といっても、あと一週間で夏休みですけど。いくつかのクラスは、この話を夏休み明けにすることになりますから、もしこのブログを見ていればいい予習になるでしょう。

【本日のテーマ】
ルターの主張内容は?

ルターKP

【説明1】(10分)
なぜドイツで宗教改革が起こったのか? その理由を簡単に説明しました。
16世紀当時、サン=ピエトロ大聖堂の改築工事のため、ローマ教会は多大な費用が必要でした。教科書には、その建築費用を捻出するために贖宥状を販売したと書いてあります。でも、実はそれだけではなく、南ドイツのアウクスブルクという町の富豪フッガー家から、皇帝カール5世は借金していました。神聖ローマ皇帝の選挙に出馬するためにです。また、ローマ教会の有力者アルブレヒトもフッガー家から借金していました。この借金返済のため、ローマ教皇レオ10世は贖宥状販売をドイツ(神聖ローマ帝国)に認めたのでした。教皇は贖宥状販売部隊をドイツに遣わすのですが、当時のドイツは国内がバラバラで「ローマの牝牛」と呼ばれるほど、ローマ教会にとっては都合のいい存在でした。

この状況に異議を唱えたのが、ヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン=ルター(1483~1546)でした。彼は1517年に「九十五カ条の論題」というローマ教会に対する質問状を、ヴィッテンベルク城教会の扉に貼りつけました。この日が10月31日だったので(一部異論もあります)、宗教改革記念日とされています。
というわけで、ドイツで宗教改革が始まりました。

【考察1】(10分+5分)
プリントにある「九十五カ条の論題」の抜粋文と、ルターが作詞作曲した讃美歌267番の歌詞を読んで、彼の主張をまとめる。ただし教科書や図録を見ず、あくまで資料を根拠にまとめる。
(10分したらペアを組んでいる人と情報交換する)

【解説1】(10分)
「九十五カ条の論題」に見られる主張は大きく三つあります。
・ローマ教会による贖宥状販売を批判
・人は信仰によってのみ救われるという「信仰義認説」
・聖書に書いてあることを信仰する「福音主義」
そして「讃美歌267」にも、「神はわがやぐら、わが強き盾」や「よみの長もなどおそるべき」などと、彼の主張が歌詞にあります。少し恥ずかしかったけれど、1番だけ授業で歌いました。たった一人で。私の美(微)声に彼らは酔いしれ、拍手を強要されて拍手喝采でした(笑)。

【説明2】(10分)
さて、これが発表されると大論争に発展し、発明したて活版印刷術によってパンフレットが印刷されて、ヨーロッパに広まりました。ルターは当初ローマ教会を徹底的にやり込めようとは思っていなかったようですが、ローマ教会は自説を撤回するよう求めました。でも、逆にルターは頑なになり、数回の論争を通じてローマ教会への批判が過激になっていきました。ついに教皇レオ10世はルターを破門し、皇帝カール5世もウォルムス帝国議会にルターを呼び出しました。でも彼はそれを拒否したため、ルターは法の外に置かれました。傷つけたり殺したりしても罪に問われないということです。そして帝国議会後、ヴィッテンベルクに帰る途中、ルターは覆面をした騎士たちにさらわれてしまったのです。でもその正体は、ルターを保護したいと考えたザクセン侯フリードリヒでした。ルターはザクセン侯の城にかくまわれて新約聖書のドイツ語訳をし、讃美歌も作りました。

そんな中、トマス=ミュンツァーがルターの教えを急進的にしてドイツ農民戦争(1524~25)を起こします。ルターは当初農民を支持しましたが、彼らの要求が急進的なことを知ると積極的に農民を弾圧する側にまわりました。ドイツの諸侯たちも、ローマ教会支持の諸侯とルター派の諸侯に分かれていきました。1526年、皇帝カール5世はルター派を禁止しましたが、オスマン帝国が神聖ローマ帝国に攻め込み、1529年にウィーンを包囲しました。そこでカール5世は、ルター派諸侯の救援を得るため、一時的にルター派の信仰を認めました。しかし、オスマン帝国はウィーン包囲から撤退したため、カール5世は再びルター派を禁止しました。これに対して、ルター派諸侯たちは抗議文を提出しました。ここから「抗議する人」という意味で「プロテスタント」と呼ばれるようになりました。protestは抗議するという意味の英語ですね。日本では「プロテスタント」を「新教」と言い、「カトリック」を「旧教」と言います。

【説明3】(5分)
ルター派諸侯たちはシュマルカルデン同盟を組織し、1546年から47年までシュマルカルデン戦争を起こしました。戦争は皇帝側が勝利しますが、次に即位したカール5世の弟は、1555年にアウクスブルクの和議を結びました。ルター派を選択することは認めましたが、個人の信仰の自由はなく、諸侯にルター派かカトリックの選択権を与えるものです。領邦の住民は、そこを治める諸侯の選択に従わなければなりませんでした。





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Last updated  2017.06.01 23:22:37
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