■村上春樹の文体論――『1Q84』読解のために■(1)
実は『1Q84(BOOK3)』の書評を書こうとPCに向かっていたのだが、書評のための予備的問題としての文体論の部分が思いの他膨らんでしまったので、独立して先に記すことにした。以前、「村上春樹と文体論」で書いたことの問題が、『1Q84(BOOK3)』の書評を書くために引用した文章のなかで、実は解決されていることに気付いたことも、本稿を独立させた重要な理由のひとつである。その文章とは、村上訳によるレイモンド・チャンドラー『ロング・グッバイ』の「訳者あとがき」である。(小生は、その文章を、「村上春樹と文体論」を書いた1ヶ月後に読んでいたのだが、その関連性に最近まで気づいていなかった。『ロング・グッバイ』自体が面白すぎたということもあるだろう。)というわけで、付け足しの部分を終えて、本論に入ろう。(ところで、4/25付の朝日新聞で斎藤環が『1Q84(BOOK3)』の書評を書いているが、それに対する応答も多少意識して記すつもりだ。)■『1Q84』へ影響した作品?2007年3月に、村上訳の『ロング・グッバイ』が刊行された。時期的にみても、この翻訳が『1Q84』に影響を与えた可能性は否定できない。その「訳者あとがき」で、村上は『1Q84』読解のヒントを示してくれている。この「あとがき」は、村上の文学論の断片を示してくれるもので、村上ファン(アンチファン含む)は一読するべきである。そして、その「文学論」はなかなか重厚であり、細かく引用するのには馴染まないのだが、全文を引用する紙幅はないので、誤解を恐れつつ(笑)、いくつか引用しよう。(もちろん、本当は全文を読んでほしい、そしてその際には『ロング・グッバイ』本文を先に読むべきだ。)最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなのがありなのか、と。〔下線部、原典では傍点:以下同様〕おそらく、この「普通でなさ」の正体を丹念に翻訳する中で見定めたことこそが、斎藤環が驚いた「村上の文体の“復活”」に寄与しているのだろうと思われる。こんなのがありなのか、と驚いた若き村上の直感が、表層的な「文体」ではなく、近代文学の存立のあり方と関わっている<文体>に向けられていたことは間違いない。斎藤は、“復活”の理由を「身体性」に求めるのであるが、では、どうすればその「身体性」が手に入るのか、という問いに対しては、(もちろん)答えていない。だが、村上にならって、我々もチャンドラーの文体の秘密へと思考を進めれば、そこには、確実に「近代文学」への「距離のパトス」とも呼ぶべき、深い方法論が存在していることに気づくはずだ。ジョイス・キャロル・オーツのこの表現〔引用者注:「自意識を抜きにした雄弁」〕は、チャンドラーの文体の魅力(のある側面)を的確に表している。多くの小説家は意図的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ち方である。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているか――具体的にであれ抽象的にであれ――によって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的にはきわめて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。村上の「近代文学」論とも言える重要な箇所である。そして、そう言われてみれば、村上を好まない人々が、今や袋小路に迷い込んでいる「私小説」なるものが好きな人たちと見事に一致することに気づいてしまう。そして、そういう人は、袋小路に迷い込んでいることに気づいていないか、あるいは、その打破の仕方において村上に異議があるか、のどちらかであろう。(しかし、後者だとして、彼らは何を提示してくれるのだろう?)自我をまったく反映しない個人的所見や対応などどこにもない(はずだ)。そしてその所見にはもちろんひとつの一貫性がある。にもかかわらず、フィリップ・マーロウ〔引用者注:『ロング・グッバイ』の主人公〕はそのような自分の所見や対応の具象的なあり方に正確に綿密に固執することによって、またその一貫性を様式的なまでに美しく維持することによって、むしろ自我の実相をどこかべつの場所に巧妙に隠匿しているのではあるまいかという疑いを、我々は、あくまで漠然とではあるが、しかし避けがたく抱いてしまうことになる。何故なら一貫性というものは、自我のあくまで一機能に過ぎないわけなのだから。村上は、この引用箇所の前において、『ロング・グッバイ』で描かれているものは、主人公「フィリップ・マーロウの目で切り取られていく世界の光景」だと述べている。『ロング・グッバイ』における論理の一貫性(と我々が感じるもの)は、「自我」に担保されるではなく、世界=場面に担保されている、ということなのだろう。そうして考えると、『1Q84』が正確にそうした性格を持った小説であることに、我々は気づくのではなかろうか。それほどの深い逆説性は、生身の人間にはなかなか見いだしがたいものだ。そしてそのような逆説性についてより深く考えていくと、フィリップ・マーロウという存在は、生身の人間というよりはむしろ純粋仮説として、あるいは純粋仮説の受け皿として、設定されているのではあるまいかという結論に――少なくとも僕はということだが――行き着かざるを得なくなってくる。そしてそういう見方をとった方が、チャンドラーの小説をめぐるいろんなものごとがより理解しやすくなってくるのだ。そう、そして(そのような読み方をする読者なら、ということだが)、『1Q84』についても、いろんなものごとがより理解しやすくなってくる、と言ってよいのではなかろうか。とりあえず結論を急いで、とても簡単な言い方をするなら、フィリップ・マーロウという存在を確立し、自我意識というくびきに代わる有効な「仮説システム」を雄弁に立ち上げることによって、チャンドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートを、ミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した、ということになるのかもしれない。このキャラクターの確立こそ、斎藤が「身体性」と呼ぶものと関係している。すなわち、自我意識の「狭さ」を超えて存在する「現実」は、「深い逆説性」を含みこんだ「仮説としての身体」においてのみ表現可能なのである。(そして、BOOK1,2の書評において、小生が『キャラクターズ』について言及したことも、ここに関係している。)ここにおける「近代文学のおちいりがちな袋小路」とは、まさに、「作家の自我意識の限界」のことであり、ある個人作家の目を通して見られるものしか(可能性としても)作品に表現し切れない、ということである。卑小な例だが、歴史物語の主人公たちが、いいように作家のレベルにまで矮小されてしまう、といった事態は、この典型的なものと言えよう。つづく