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テーマ:中国旅行(113)
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tetywestは「北京旅行記(10)」にも書いたように、以前に「故宮」を訪れたことがある。故宮の面積は7.2ヘクタールなので、「木府」はその半分よりも狭い。しかし建物の配列は唐朝の様式をそっくり真似ていて、故宮とほとんど同じだった。ただ建物のいたるところに青い塗料が使われていて、そこに白い模様を描き込んでいるのがいかにも雲南らしい。特に軒を支える斗【木へんに共】(ときょう)が幾重にも重なった雲肘木(ひじき)なのが印象的だ。雲南省だから雲肘木という訳でもないのだろうが・・・その派手さは「日光東照宮」を彷彿とさせる。
故宮になくて木府にある建物は三清殿だ。玉音楼までは同じ高さの敷地に建てられているのだが、三清殿は獅山の中腹にあるので階段を登って行かなくてはならない。 「わ~~凄い!」 三清殿に到着したとき、再びtetywestは思わず喚声を上げてしまった。それは三清殿の建物にではなく、そこからの眺めに対する喚声だった。四方街で「山の上から麗江古城を眺めてみたい」と思いながら果たせなかったtetywestの希望が偶然にも叶えられたのだ。眼下には麗江古城の瓦屋根がパノラマで広がっている。これをまさしく「甍(いらか)の波」と言うのだろう。tetywestはどこまでも続いている瓦葺の屋根を見たとき、麗江の「豊かさ」を、そして「優しさ」を連想してしまった。 三清殿からの眺め(南東) 三清殿からの眺め(東) 三清殿からの眺め(北東) なぜ「豊かさ」なのかというと、日本で庶民の家に瓦が使われ始めたのはようやく江戸時代になってからなのだ。それもほとんどが桟瓦葺き(さんがわらぶき)で、丸伏せ瓦を使った本瓦葺き(ほんがわらぶき)はお寺くらいのものだ。tetywestの住んでいる仁尾町は本瓦葺きの民家が多く残っているのだが、これは江戸時代に土佐藩の茶の専売免許で裕福になった商人が多かったからだ。庶民の家まで瓦が葺けるのは、そこが繁栄していた証拠だろう。 麗江は「茶馬古道」の要に位置している。チベットやネパールから帰ってきた旅人は、無事に麗江に到着したとき石畳の街のたたずまいにホッと安らぎを覚えたことだろう。今から旅立つ人たちは、ここ麗江で最後の中国の香りをしっかりと記憶に留めたに違いない。ここから先には都市らしい都市はなく、命がけの旅が待っているのだから。 緑の山に囲まれた麗江古城の街並みを眺めながら遠い昔に思いを馳せていると、急に細かい雨が降り始めた。昼過ぎには太陽が顔を見せていたというのに、高山の天気は変わりやすい。tetywestたちは木府の中を入り口に向かって引き返す。近くでよく見ると建物の青い塗料が剥げかかっている箇所がある。夏の気温は低いとはいえ、ここは亜熱帯なのだ。山の緑が活き活きとしているのは結構湿度が高いのだろう。世界文化遺産を維持していくのはなかなか経費がかかるようだ。 時間は5時半を過ぎていたので木府の中はほとんど誰もいなくなっていた。幸い雨はすぐに止んで、tetywestたちはもと来た「七一街」を「四方街」へ抜け「東大街」を通って麗江古城を後にした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年10月30日 11時59分06秒
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