|
テーマ:中国旅行(113)
カテゴリ:カテゴリ未分類
パンフレットによると、「黒龍澤」俗称「龍王廟」又は「玉泉公園」は、麗江古城の北端、象山の麓にあり、古い栗の樹の下の二つの泉から涌きだして4万平方メートルの澤を造っている。泉の水は玉のように透き通っていて、藻の花が咲いている様子や多くの種類の魚が泳いでいる様子を水面から見ることが出来る。湖畔にはいろいろな花、草、樹が茂り、その間に楼台亭閣が散在していてとても美しい風景である。
清朝の乾隆2年(1737年)に玉泉龍神祠が建立され、清嘉庚17年(1812年)と光緒15年(1889年)の2回、清朝皇帝によって「龍神」の号を下賜され、「黒龍澤」の名前は中国名泉に列せられて天下に知れ渡った。 その後、得月楼、戯曲舞台、万寿亭、鎖翠橋などの公園内の建物が造られて、新しく象山を巡る遊歩道も整備された。解放後、この公園には麗江各所から明・清時代の建築が集められている。五風楼、解脱林、光碧楼、忠義門石獅子、文明門、一文亭などは移設された建物である。 1981年に公園内に「東巴文化研究所」が創られ、黒龍澤は中国風景公園としてだけでなく、深厚な文化施設としても完成された。 最近10年だけでも、胡燿邦、江沢民、李鵬、朱鎔基などが黒龍澤を訪れている。黒龍澤は麗江、いや雲南省の観光地の中でもひときわ明珠の輝きを放っている。 「龍澤倒映十三峰 潜龍在天 飛龍在地 玉水縦横半里許 墨玉為体 蒼玉為神」 郭沫若 題 パンフレットには公園内にある建物を全て説明してあるので、ここで紹介しておこう。 最初に見たダムの水門は「鎖翠橋」で、1887年に造られた。 「【りっしんべんに京】濤憾樹飛晴雪 未雨垂虹【目へんにト】曲波」 と古詩に詠われている。 水中にあった東屋は「一文亭」と呼ばれている。明朝の万暦年間に造られたもので、この建物にまつわるエピソードがある。一人の僧が、家々を回り一文銅銭を托鉢してまわった。その小さなお金が積もってこの亭が建てられたために「一文亭」と言うのだそうだ。 一番目立っている石の橋は「五孔橋」で、1936年に造られた。得月楼が再建されたとき、楼との釣り合いを持たせるために、もともとは九眼洞西側にあった九孔橋をここに移した。 「得月楼」は1876年に造られ、玉泉公園の建物の中心である。1963年に再建され、「very majestic」で「rich with meaning」なのだ。しかし残念なことに「五孔橋」も「得月楼」も修理中だった。 「春風楊柳万千条 風景這辺独好 飛起玉龍三百万 江山如此多嬌」 郭沫若 題 「五孔橋」と「得月楼」 しょっちゅう登場する「郭沫若」氏とは何者だろうと調べてみると、 郭沫若(1892~1978):中国四川省出身の文学者・政治家で、1925年、五・三〇事件以後急速に左傾し、プロレタリア文学の重鎮となった。全国人民代表大会常務服委員長・科学院院長・日中友好協会名誉会長などの要職を歴任した。 大正3年九州大学医学部に留学。一時帰国し、蒋介石の「北伐」にも参加したが、蒋介石との対立から昭和3年日本に亡命し、再び帰国するまでの10年間を千葉県市川市で過ごした。 文学作品をヨコガキにしたのは彼であり,戦前から文字改革に熱心であったのは,かれと魯迅とであった。 という、日本とも関係の深い凄い人だった。おそらく中国の人は誰でも知っているのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年11月08日 12時28分36秒
コメント(0) | コメントを書く |
|