吉報の陰に思うこと
先日、私の学生時代からの友人に初めてのお子さんが生まれ、「赤ちゃんが生まれました」と写真つきの葉書をいただいた。友人に目鼻立ちの似た、可愛い女の子だ。ここ2,3年の間に、昔馴染みの友人が遅まきながらも続々と結婚・出産。長男や次男を出産した当時は回りは独身だらけで、少し寂しかったがやっと今になって“ママ友”としてお付き合いが出来ることを嬉しく思っている。昔馴染みの友人のお子さんの誕生は、何だか孫の誕生を見るようで無条件に目を細めて喜んでしまう。しかし、この「赤ちゃんが生まれました」葉書。(この友人に限った話ではなく)送る側は純粋に子供の誕生を喜び、それを知らせたくて送っているであろうことは当然だと思うが、相手の気持ちや近況までを慮る人はどれだけいるだろうか。「あんた、私に送ってくれるのはOKだけど、最近流産したばかりの人には送ってないだろうね?」「不妊に悩んでいる人には送ってないだろうね?」と、おせっかいでしかないことまで心配してしまうのは(思うだけ。直接訊きはしない)、きっと私の心がまだ癒えてないせいだろうと思う。幸いにと言うか、昔馴染みの友人に限っては春歌と同学年のお子さんを産んだ人はいない。もしいたとして、「生まれました」葉書を送りつけられていたらその友人と今後何事もなかったように付き合えるか、と訊かれたら自信を持ってイエスとは言えないだろう。(・・・書いていて思い出した。夫の従妹が春歌と同学年の女の子を無事出産し、その「生まれました」葉書を親戚に平気な顔で見せられたんだ・・・)何が言いたいかというと流産・死産をして日が浅い人々が、今もリアルタイムでこうした回りからの悪意なき言動に泣いているということだ。前述の、赤ちゃんの写真を嬉々として私に見せた夫の親戚。フリーページでも書いた、春歌と数日違いで生まれた知り合いの子の誕生について長々と私に聞かせてくれた人。「もう二人もお子さんいるのに、どうしてそんなに焦るの?」と、私のカルテを見ながら不思議そうに訊ねた医者。「可哀想だったね。でもまだ若いんだから・・・」と励ます?傍ら、自分の赤ちゃんの成長ぶりを何事もなかったように語る知り合い。特にこの人に改めて伺いたい。私があんたの子の成長について、いつ訊きたいと言った?一体私にどんな返事を求めている?私は彼ら全員に対し、努めて冷静に対応し、時として分かったような笑顔で相槌を打った。その結果、自分でも気付かないうちに、心が少しずつ壊れていったようだ。カウンセリングに通うことを考えたこともあるが、結局どこにも行かずに現在に至る。また気持ちを分かってくれない医者に遭遇したらどうしよう、と不安なのが一番の理由だ。流産や死産に限ったことではないが、ほんの少しでもいい。悲しい出来事に遭遇している人が、今この瞬間にもいるということを心の片隅にとめておきたいものである。 3月も半ばを過ぎ、巷では春をテーマにした歌が溢れるようになった。それはそれで別に華やかでいいんじゃないの、と単純に思うのだが聴く度に複雑な気持ちになる曲が一つある。それは、NHK「おかあさんといっしょ」で流れる『はるかぜでんわ』。春歌が生まれる年に確か初めて流れた。以後、毎年この季節になると歌われる。まだ春歌がお腹で元気だった頃これを聴くと、「ああ、春だなぁ、もうすぐ生まれるんだな。まるで私の子のために作られたような曲だわ」と、親馬鹿全開なことを密かに思い、喜んでいたものである。翌年は伊吹をお腹に授かりながらも、涙ぐんで聴くことになろうとは夢にも思わず。美しいメロディだからこそ、せつなく悲しい。春歌は天国の桜の花を見ながら、今年はどんなことを思うのだろうか。