ナンバー銀行の由来
街を歩いていてナゼだか気になるのが『七十七銀行』『百五銀行』『第四銀行』『十六銀行』・・・数字の名前の銀行。『みずほ』になっちゃった『第一勧銀』だってそうだろうし、でもこれらの銀行この不況時によくぞブっつぶれずに残ってるなぁ・・・と銀行街を歩く度に思う。ナゼかというと、現存するホトンドの銀行は、財閥系を除いてはナンバー銀行の吸収もしくはお名前変更になっちゃって現存するのは153あった中でわずか6,7つかそこら。これを書き終えて数年後にはどこかのナンバー銀行も吸収合併されてる確率高いのだ。ホトンドが、三重、岐阜、香川、長崎、新潟、宮城など、大手メガバンクに襲われにくいところに本拠地を構えた銀行だけが生き残った形になっている。そんな『ナンバー銀行』成り立ちは、どんな感じだったのか。これらの銀行は1872(明治5)年、第一勧銀(今の『みずほ』)の澁澤栄一の起案により、アメリカの「ナショナル・バンク」を手本とした制度を導入し『国立銀行条例』を制定します。明治維新直後、江戸幕府の金貨銭貨、藩札、大政官札など多種多様のお金が出回ったため政府は、その統一を図ろうとしたが、それを出来たのは、三井、住友、三菱、富士の四人だけ。そこで元武士や華族士族に『金禄公債』という退職金のような債権を与え(・・・これが後に銀行の発行する債券モノの一部分)それを元手に銀行を設立する仕組みを作ったわけでしたが、あまりにも『雨後のたけのこ』状態で『なりあがりの銀行屋』が出来てしまったため、怒髪長を抜いた発案者の渋沢は1879年(明5)に『どんなものでもなれるわけではない』と厳しいお達しをだしたという。『七十七銀行』は登録を出した番号が『77番目』だったからだとか。その幸運にあやかって今日も残れたのかもしれない。そしてかつて153もあった『ナンバー銀行』どこへいったのか。今のUFJ(UFJ東京三菱)に合併された『三和』はモトモト第三十四銀行と第十三銀行、第百四十八銀行の合併らしいし、八十二銀行は第十九銀行と第六十三銀行の足算...本拠地は長野、第八十二銀行ってのは鳥取県にあったのだけど、合併した1931(昭6)既に富士銀行に合併されていたそうなので、決定しちゃったそうです。これからの世の中、英会話の教師にご説明する機会でもありましたら、これらの銀行は『サムライがたてたのじゃー』と説明してくだされ、あ、『リストラされたから』とか『政府から補助金貰って』とかはナシよ。