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カテゴリ:エッセイ
「願立剣術物語」に「玉ノキヨクト云事」という教えがある。
内容をわたしなりに解釈するとこのようになる。 技の動きというものは、常に玉が坂道を転がり落ちるようでなければならない。 しかし、あまりにも急な坂だと玉は転がりおちるというよりは、すべり落ちてしまう。 ある程度角度のゆるい坂ならば、玉は常に回転しながら動き続けているが、落ちてしまうような急な坂なら、玉は回転を止めながらおちてしまう。 弓の名人は、止まっている物に狙いを定めて射る。 それは、止まったままの的だけではなく、動いていても止まる瞬間を狙って射る。 しかし、坂道を転がる玉のように、常に回転し続け、止まる事のないものを射ることはできない。 止まるところは、動きの角だ。 角を狙って弓は放たれる。 要はいつ始まった動きなのか、いつ止まる動きなのか認識できなければ、打つことができないということ。 それを逆に考えれば、いつ始まった動きなのか、いつ止まる動きなのかわからなければ、その動きを受けたり躱したりできないということ。 心急くままに相手に向かって突っ込んでいっても、それは玉が回転を止めながら落ちていく動きなので、容易に受けられてしまう。 しかし、体の各パーツの動きが止まる処がなく近づいてくれば、止めることも受け流すこともできない。 それは玉の様に回転しながら動くということではなく、手足、体幹の動きが別々の働きをしながら同時に展開していくということ。 玉は、全てが同時に動き続けていくもの、という例えだ。 私はこの玉の教えを太極拳の攻防の中に見る。 中国武術全般においてもあてはまる。 いや、日本と中国に関係なく、全ての武術にあてはまるものだと思う。 先人の知恵の深さ。 自分ごときが及ぶものではないと、つくづく思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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S君」、めずらしい映像をありがとう。見たことのない場面がいっぱいありました。おもしろかったです。
(2024.07.01 20:21:22)
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