《巡視員時代》「新興宗教」
【1】出張所の近くに、ある新興宗教の本部があった。本で調べたら、公称信者数80万人ということなので、けっこう大きいところなのだろう。新興宗教の信者は、よく「勧誘」に動く。新規信者を集めるという目的もあるが、勧誘をするとき団体のいいところを強調して言うので、それが、「自分の言った言葉に強い影響をうける」という行為になって、信者の信心を強めるということもあるようだ。建設省の出張所は公共性のある役所なので、特定の宗教などと関わってはいけないと考えていた。しかし、近所ということもあって、平日の昼間に、その新興宗教の信者が勧誘に来ていた。出張所は1階が食堂や倉庫になっていて、2階が事務所になっていた。建設省の正職員は2階にいた。そこへも「勧誘」は入っていったようだ。【2】出張所の1階にある食堂で休憩していると、新興宗教の信者らしき中年女性が、2階から降りてきて食堂にも入ってきた。俺にも「奇跡がどうたら」と書かれたパンフレットを渡し、あなたは奇跡を信じますかというようなことを言っている。俺はその女性に「ここの2階は役所の執務室なのだから、出入りしないでほしい。ここからもでていってほしいんですけど」と言った。その女性は、にこにこしながら「どうしてなんでしょう」と言っている。早く出て行ってほしかったので「俺も予言くらいならできるよ…あなたは、あと10秒後の間にこの部屋から出ていくでしょう」と言ってみた。「はぁ?」「10,9,8,7…」ゆっくり数えだすと、女性は「すみませんでした」と出て行った。【3】その当時付き合っていた彼女に「新興宗教の中に行ってみようかな」と言ったら「だめ、いっちゃだめ」と言う。「ひとりで、見学に行くんだよ。どういうところか見てみたいんだ」「だめだよ。ああいうところはよくわからないところだから、いっちゃだめだよ」「よくわからないところだから、よくわかるように中に入り込むんだよ」「友達が前に変な宗教に入ったら、ぜんぜん変わって変な人になっちゃったんだよ。お願いだから行かないで」「いや、入信したいわけじゃないんだよ」「だめだよ。中に入ったら強引に加入されるんだから」「そこまで言うんなら考えてなおしてみるか」「うん、よく考えて、やめて」【4】運転手さんにも「新興宗教に入り込んで、中を見てみたい」と言ったら「やめたほうがいいよ。ああいうところは隠ぺい性があるからね。」と止めていた。ある日、巡視に出発すると運転手さんが「このルートはね1年に1回くらいしか通らないんだけどね」と、新興宗教の周りをゆっくり走った。そこは、3メートルくらいの高さのブロック塀で白く塗られていた。白くなかったら刑務所みたいだ。風窓といわれるものもない。開口部がない。裏の角に1か所だけ、裏門なのか、搬入口なのか、トラックが出入りしていた。運転手さんは「高い塀だねぇ。出入りもできないし、中が見えないようになってるんだねぇ」とわざとらしく言っていた。俺が中に入りたいなんて言ったから、危険な感じのところだろうと見せてくれたみたいだ。【5】ある休日に、野田の街を歩いていた。古くからしょうゆ作りの盛んな土地で、古い看板なども見られた。ふと道路の反対側を見ると、数人の中年女性がかたまっている。観光客風ではない。地元の人間かと思うが、立ってるだけで買い物などの行動目的が見えない。考えすぎかもしれないが、出張所で、新興宗教の信者を追い出すような形になったので、俺を恨んでマークしているのかと思ってみた。俺は、女性たちのほうを見て動かずにいた。しばらくじっとしていると、30歳代らしい女性一人を残して消えていった。残った女性は、横を向いて動かなかった。街中では、不自然な行動だが、彼女はずっとそこにいた。俺も動かずにその女性をじっと見ていた。しばらく経ってから、その女性も消えていった。家まで尾行されるなと直感的に感じた。【6】アパートに戻って、裏から出て1ブロックをぐるっと回ってみた。さっきの女性が、道路の角にいて、俺の住んでいるアパートの方向をじっと見ている。俺は、後ろからそっと近づいて行って、落ちていたゴルフボールを、その女性の前に投げてみた。その女性は、何だろう?とゴルフボールが弾んでいるのを見ていた。俺は、その女性の自転車に近づいた。女性は、俺に気が付いて驚いた猫のように、自転車に乗ろうとした。俺は、自転車の前輪を電柱に押し付けていた。女性は、動かないハンドルに力を入れて「あれ、あれ」と慌てていた。「俺が住んでるところがわかってよかったね、おめでとう」と言うと、女性は無言でいそいで走り去っていった。【7】アパートに戻ったが、さっきの女性が、もう一回つけてきてるかもしれないと思っていた。玄関のドアをそっと開けてみると、さっきの女性が目を伏せて立っていた。逃げることもせず、黙って立っているので、「中で話そうか」とだけ言って、その女性の腕をつかんで中へ入れた。ドアを閉めて、二人とも黙って立っていた。俺は、いきなりズボンとパンツを降ろして「さ、男と女がすることしようか」と言ってみた。その女性は、顔を手で覆ってしゃがみこんで泣き出した。しばらく泣かしておいて、おとなしくなってきたので「あなたは、あそこの新興宗教の人だよね」と聞いてみた。女性は「はい、そうです」とはっきりした声で答えた。「それだけわかれば、もう帰っていいよ」【8】その当時は、資格試験のために勉強していた。部屋で勉強するのが辛くて、喫茶店やファミレスに行って本を読んでいた。あるファミレスで、食事を摂りながら本を読んでいると、ウェートレスが横に立っているの感じた。こちらには用がないので無視していたら「イナゴ好きですか?」といきなり聞いてきた。なんだこいつはと思ったが、ゆっくり顔を上げて「嫌いです」と答えてやった。ウェートレスは、無言で消えていった。帰り際に、レジ係の女性が「ごめんなさいね。へんな宗教に入ってる子がいて」と言っていた。俺は「別にいいよ。入ろうと出ようと俺には関係ないから」と言ってやった。やはり新興宗教は、俺をマークしてるらしいことがわかった。そのファミレスには2度と行かないことにした。【9】俺が新興宗教にマークされてるのは間違いない。部屋までわかっているのだから、大家にかけあって合鍵くらい作ってるかもしれない。それで、部屋に侵入して、盗聴くらいのことはするかもしれない。俺の思い過ごしということもあるだようが、用心するに越したことはない。部屋の中を見回して探してみたが、盗聴器らしい物は見つからなかった。ただ、コンセントに、見慣れないテーブルタップがささっていた。俺がつけたんだろうか記憶がない。だいたいがコードが刺さっていない。これが盗聴器かどうか調べなければならない。抜き取って、ドライバーで分解してみた。コンデンサーのような形のものが入っている。ただのテーブルタップはもっとシンプルだ。これが盗聴器だということは間違いない。しかし、どこの誰が盗聴器を仕掛けたか確定したわけではない。【10】盗聴器をそっとコンセントに戻して、CDをリピートで聞いていた。曲は大好きなZARDの「ゆれる想い」だった。CDはかけたまま外に出てみた。盗聴器の電波の届く距離は、半径200mくらいと聞いたことがあった。近くに、盗聴音声を聞いている人間がいるかもしれない。アパートの周りをまわって、裏に来た時、ブロック塀にレシーバーらしき物をぶら下げている中年男2人組がいた。2人も、俺を知らないのか、そっぽを向いている。そのレシーバーからは「ゆれる想い」が聞こえていた。まず間違いないだろうが、確認のため、ちょっと曲を聴いていた。1曲終わって、間があって、また「ゆれる想い」だった。確定だ。俺の部屋を盗聴しているレシーバーだ。俺は、レシーバーをいきなりつかんで「これはなんだ?」と男たちに言った。【11】男たちは「ふぇ、ふぇ」とおびえていた。驚いておびえるくらいなら、最初からやらなきゃいいのに。「俺の部屋を盗聴して何を探ってたんだ?」「俺たちは、何も知らない。ただ、言われたことをやっていただけなんで…」「あの新興宗教の人間が言ったのか?」「あ、ああ、そうだ」男たちは、俺がつかんだレシーバーを強引にもぎとり、走って逃げて行った。俺は追いかけもせず、彼らを見ていた。大家さんから合鍵を借りて、部屋に侵入したに違いない。しかも、盗聴するということが悪いことという認識もないのだろう。女性を使って尾行はさせるし、部屋にも来るし、一般人から見たら怖い相手だな。出張所に来た信者を追っ払うようなことをしただけで、そんなに恨みをかうんだろうか。まさか、命までは取らないと思うが…【12】次はどんな手を使ってくるんだと思ったら、不思議と怖さもなかったけど、興奮もしなかった。まさか、新興宗教すべてが、オウム真理教のようなことをするはずがないだろうという気持ちと、金と人はたくさん持っているのだから、とんでもないことを仕掛けてくるかもしれないとも思っていた。それと、宗教は、幸福と安泰を望むのだろうから、俺が追っ払ったことには怒ったとしても、「許す」ということもするのだろうと考えていた。その新興宗教の教主は、先代の息子で二代目で、歳は俺と同じくらいだった。信者たちが暴走しても、それを止める力はあるんだろうと思っていた。「奇跡」は起こさなくてもいい。団体を引っ張って行く力は、持っていてほしいと考えていた。さあ、次は何をしてくるのかな。楽しみだ。【13】朝、出勤しようと外に出たら、ヘリコプターが飛んでいてうるさかった。下の駐車場まで降りてみたが、どうも、ヘリはこのアパートの周りを旋回しているようにも見える。中型のヘリだった。俺を攻撃してくるためかと思い、車から一時離れようと思った。車が攻撃されたら、ガソリンに火がついて爆発を起こすだろう。入口のブロック塀の横に立った。もし攻撃されたら塀の裏側に逃げようと考えて、ヘリを見ていた。ヘリのドアは開いていて、一人の男が座っていた。その男は、白い筒状の物を抱えている。バズーカ砲かロケット砲か。男は、白い筒をこちらに向けた。どうやら、カメラの超望遠レンズらしい。俺を撮ろうとしているのか。俺は、斜に構えてにらみつけた。カメラマンは、手を挙げて、カメラを降ろし、ヘリは飛んで消えていった。【14】空の上から超望遠レンズを使って、人の写真を撮るってなにか意味があるんだろうか。女子尾行にしても、盗聴にしても、ヘリからの撮影にしても、なにを考えてるのかがよくわからない。暇で他にやることがないのかな。新興宗教の信者として、自分の存在感を感じるためとか、他の信者に行動を評価してもらうためとか、たぶんそんなところだろうなと感じる。俺の命を狙うなら、もっと賢い隠密行動をするだろうし、そこまでする必要はないと考えてるのかな。ああ、娯楽か?新興宗教の名を借りたお仲間サークルで、刺激のあることをやってみたいということか。信者数が80万人もいれば、集まる寄付金も相当な額だろうからな。その、使い道に迷ってるのかもな。まだまだ、怒ってこちらから出ていく場面でもないな。【15】巡視から戻って、出張所の事務室で報告書を書いていたら、係長が「そこの新興宗教から電話です。どうも、そこの教主らしいですよ」緊張した。「トップの人間と話がしたい」と誰かに言いたがったが、そのきっかけがなかった。そこへ、向こうから電話してきたか。「お電話替わりました。ヤマザキです」「わたくし、新興宗教で教主をやらせてもらっている『ヤマナカ』と申します」教主をやらせてもらっているとへりくだって、「ヤマナカ」という本名を使っている。「どういったご用件でしょうか」「うちのものが、ご迷惑をかけたんじゃないかと、お詫びの電話をさせてもらっています」話し言葉に育ちのよさを感じるが、カリスマ性のようなものは感じられなかった。二代目でもあるし、「お飾り」の教主なんじゃないかとは思っていた。【16】「こちらでは、たいして迷惑だと感じていません。それより、そちらのほうが、俺一人のために、手間をかけたり、ヘリなんか飛ばしてお金かけて、ご迷惑だったんじゃないですか」「それらは、うちのものが勝手にやったことでして」「あなたには責任がないと?」「いえ、全責任は私にあります」「でしょう。だったら、下々の者に、余計なことをするなと指導されたらどうです?」「おっしゃる通りです。今後はきびしく指導していきます」「それと、俺ごときに、手間とお金をかけるより、なにかみんなでボランティアでもされたらどうです?そうのほうが、暇をもてあますこともないし、大金を使うこともないし」「そのお話は、ぜひ検討してみたいと思います。ありがとうございました」【17】朝の出勤は、ときどき自転車で行っていた。片道4km自転車で走るだけでも運動不足の解消になるだろうと考えていた。新興宗教の前まで来たら、塀沿いに人が並んでいた。全員女性だ。声をそろえて「おはようございます!」と言っている。さすが宗教団体は統率がとれている。よくやるよと思いながらも、悪いことでもないので、その日は、知らんぷりして通過した。翌日も女性たちが「おはようございます!」と声をかけるが、どうやら、俺だけに向かって言ってるようだ。リーダーらしき女性を呼びつけて「俺に挨拶するんじゃなくて、ここを通る人全員に挨拶すれば、俺一人に挨拶するなら、断る」「わかりました!」と異様に元気な声で答えていた。【18】ある日、江戸川を巡視中に出張所から無線が入った。運河に「フナ」が浮いていると通報があったとのこと。魚が浮いているということは、水中の空気がすくなくなったのか、油か薬物が流れこんだか、なにか原因があるはずだ。とにかく、確認するために、運河を一周してきたが、何も見えなかった。出張所前の公園に、徒歩で降りて行ってみた。川面には何も異常はなかった。フナが浮いているという通報を疑うべきか。だいたい、魚といわずにフナと限定してきたこともおかしい。巡視員である俺をおびき出すための罠か。また、新興宗教のしわざかと考えてしまった。運河に異常が起きたとなれば、俺が動くだろうと見てるんだろうか。それとも、通報したのに、動かなかったら、そこを突いてくるつもりだったのだろうか。