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2013.04.14
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カテゴリ:中村とうよう
★ラム&コーク 北の巨人とのかかわりの系譜

最初に、1930年代のキューバ音楽を生み出したキュ
ーバとアメリカの社会について、八木啓代さんと吉田憲
司さんの著書『キューバ音楽』(2001年、青土社)の
第4章から要約します。


1920年1月16日をもって、アメリカ本土では合法
的には酒が呑めなくなった。続々と闇酒場が生まれ、酒
を密輸したギャングは儲けたが、人間、堂々と酒の呑め
る場所だって欲しい。

そこで目をつけられたのがキューバだった。隣の国とは
いえ、目と鼻の先。しかも、海は綺麗で、エキゾチック
なムードを楽しめる。そして、アメリカは空前の好景気
に沸いていた。この好況の中で、ラジオは誕生し、ハリ
ウッド映画は発展し、ニューヨークの摩天楼が建設され
、不動産と株は暴騰して、億万長者が次々と誕生してい
た。湯水のようにお金を使える人々が、歓楽を待ってい
たのだ。

そんな中で、シカゴのギャングたちが本腰を入れて、キ
ューバ開発に乗り出した。砂糖で儲けたキューバの資本
家たちも負けてはいない。見事な連係プレイによって、
キューバのリゾート化が進んだ。ハバナには、アメリカ
からどっと観光客が押し寄せるようになる。観光客たち
にお金を落としてもらうために、カジノが作られ、キャ
バレーが作られた。ハバナは、まさに不夜城の都市とな
った。

ハバナには、世界中のトップアーティストが集まるよう
になった。そして、スターたちの伴奏を行うのは、キュ
ーバの楽団だった。いくつものジャズのビッグバンドが
キューバに生まれた。アメリカのジャズ界のスターたち
も、外国公演という意識さえなく、頻繁にキューバの土
を踏んでいる。

こうしてジャズやアメリカのショウ音楽のエッセンスは
、キューバ音楽に採り入れられたのだ。キューバの音楽
家たちは、ジャズを完璧に演奏する一方、新しいキュー
バ音楽を生み出していった。たとえば、1920年代か
ら40年代にクラシックとポピュラーの両分野で大活躍
をしたエルネスト・レクォーナは、20代にニューヨー
クでモーリス・ラヴェルに学び、ロックフェラーセンタ
ーのミュージックホールをプロデュース、アフロキュー
バン組曲などを発表する一方、ショービジネス界では、
レクォーナ・キューバン・ボーイズを結成し、数々の名
曲を創作している。


★「南京豆うり」の世界的ヒットとルンバ・ブーム

さて、今回は『キューバ万華鏡 私のキューバ体験』
(2000年、海風書房)に中村とうようさんが執筆した
「世界にはばたくキューバ音楽」の中から、キューバ音
楽が「ラ・パローマ」以来ほぼ半世紀ぶりに送り出した
第二の世界商品「南京豆うり」の世界的ヒットとそれに
続く広範なルンバ・ブームについての記述を紹介します



音楽産業のカネの力が強大であることは、アメリカの強
みというよりも、むしろ弱みなのではないかと、ぼくは
思っている。カネの力でヒット曲を作り上げてしまうよ
うなことばかりやっていたら、音楽そのものの生命力が
育たなくなるからだ。だからときどきアメリカの音楽産
業は行き詰まる。そういうときに、どうするかと言うと
、外国からネタをパクッて来る。新鮮な生命力に満ちた
ネタを―。

1929年にアメリカで株が暴落して大恐慌に陥ったの
は有名な歴史の一齣だ。そのとき、あらゆる産業が落ち
込んだなかで、いちばん深刻な打撃を受けたのが、音楽
産業だった。1927年、アメリカで売れたレコードの
トータルは一億枚を大きく超え、音楽産業にとっては絶
頂期だった。ところが大恐慌のあとの1932年のレコ
ードの総売り上げは、たったの600万枚、つまり5年
前の6パーセントにも達しないというミジメな数字とな
った。

この不景気のピークだった1930年代の初めに、唯一
の明るい話題を提供したのがキューバから輸入した新し
い音楽、ルンバだった。まず「南京豆うり」という曲が
ドン・アスピアス楽団のレコードで大ヒット、つづいて
何曲ものルンバのレコードが発売された。レコードが売
れただけでなく、ルンバの踊りが流行したことでクラブ
やダンスホールも賑わった。

Don Azpiazu & his havana casino orchestra "El Manicero"​​​

Don Azpiazu & his havana casino orchestra "True Love"

アメリカからさらに、ヨーロッパでも日本でもルンバは
流行した。パリなどはアメリカ以上のルンバ・ブームで
、キューバの楽団が何組もパリに長期滞在し、ルンバ専
門のクラブがパリの夜のもっとも華やかなスポットとな
った。

​​Lecuona Cuban Boys "Coubanakan"​

Lecuona Cuban Boys "Tabou"

Lecuona Cuban Boys "La Comparsa De Los Congos"

Lecuona Cuban Boys "Para vigo me voy"

Lecuona Cuban Boys "Rumba Tambah"

Don Barreto et son Orchestre Cubain "Marta"

Don Barreto et son Orchestre Cubain "melody's bar"

日本でも、いちばん人気のあったコメディアン榎本健一
(通称エノケン)など多くの歌手が「南京豆売り」を録音
したことで、ルンバの流行ぶりがわかるだろう。

アメリカに「南京豆売り」を紹介したドン・アスピアス
という人物はもちろんキューバ人で、名門のオボッチャ
マとして生まれ、兄のアントバルとともにアメリカに留
学した。そのころキューバの大統領に就任した某将軍が
、なぜかアメリカでキューバで音楽を宣伝しようという
気になり、アメリカの大学を出たばかりのアントバルに
その役を命じた。

そこでアントバルはニューヨークにキューバ音楽を紹介
する事務所を設け、しかも彼自身がバンドを率いてレコ
ードまでも出した。アントバル・オールスターズという
彼の楽団のレコードは1930年代に日本でも発売され
、高く評価されたものだった。

Antobal's Cubans "A Gozar"

Antobal's Cubans "My margarita"

だが彼は結局、自分でバンド活動をするよりも、弟のド
ン・アスピアスにバンドをやらせ、自分はそのマネージ
メントをやる、という道を選んだ。それというのも、先
ほど触れた1929年の暴落でアントバルも損失を負い
、音楽でカネもうけして借金を返そうと考えたらしい。

そして弟のバンドを旗揚げさせたのだが、バンドは「南
京豆うり」の大ヒットでたちまち成功を収め、ブームに
乗ってヨーロッパ公演でまたまた大入り続き。アメリカ
でもヨーロッパでも、不況で沈み込んでいる人々の心に
キューバの楽しい音楽ルンバが明るい光を投げかけたの
だった。

Don Azpiazu & his havana casino orchestra "The Voodoo"

Don Azpiazu & his havana casino orchestra "Green Eyes"

アントバルとアスピアスの兄弟に続いてアメリカで成功
したもうひとりのキューバ人が、デシ・アルナスだ。こ
ちらも名門の出身。なにしろ父はキューバ第2の都市サ
ンティアーゴの市長だった。市長のドラ息子デシは、ア
メリカでミュージシャンになり、人気バンドのザビア・
クガート楽団などで活躍したあと自分のバンドを作り、
やはりルンバで人気をつかむ。

Desi Arnaz "Conga" from the RKO movie "Too Many Girls"

Desi Arnaz "Babalu"

だが彼がいちばん成功したのは、テレビ・ドラマだ。ア
メリカの初期のテレビ界で人気最高だった「アイ・ラヴ
・ルーシー」(ルーシーショウ)の主役ルシール・ボール
はデシの奥さんであり、デシのほうもあのドラマで、実
生活どおりルーシーの亭主役を務めていたのだ。

​​"Lucy Takes a Cruise to Havana"

Desi Arnaz Jr. portrays his father in "The Mambo Kings"

こうしたキューバ出身者だけでなく、南米のあちこちか
らアメリカにやってきた連中やら生粋のアメリカ人やら
、いろんなミュージシャンたちが、ニューヨークをはじ
めアメリカ各地でいわゆるラテン音楽を演奏した。


★キューバ音楽のエクゾティシズム

最後に「キューバ音楽のスケールが大きくなったのは、
その国際性による」と分析する田中勝則さんの文章「キ
ューバ音楽のエクゾティシズム」(スタジオ・ボイス1
997年4月号 特集:キューバ~革命とエロス掲載)
の一部を紹介します。


ぼくが言うキューバ音楽の特徴である、エクゾティシズ
ムと隣り合わせにやっていくようなスタンスは、この国
にポピュラー音楽が生まれた時から持ち合わせていたも
のじゃないかと思う。なにしろキューバはカリブ海に浮
かぶ小さな島。自国にさほど大きな音楽マーケットを持
っているわけはなく、その歴史は外国との付き合いなく
しては考えられない。むしろキューバ音楽をこれほどス
ケールの大きなものにしたのは、そんなこの国の音楽の
国際性によるとも考えられる。

30年代初頭、パリに進出したルンバ・バンドには、レ
クォーナ・キューバン・ボーイズやドン・バレット楽団
、そしてニューヨークに向かった中にはドン・アスピア
ス楽団やアントバルズ・キューバンズなどがあったが、
彼らこそがエクゾティックでありながら自己主張も忘れ
ない、キューバ音楽の一番の特徴を確立させた偉人たち
だ。パリではパリなりに、ニューヨークならニューヨー
クなりに、ルンバは聞き手の趣向に合わせてファジーに
スタイルを変化させながら、同時にキューバ音楽の心と
いうものを世界中に広めていった。





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Last updated  2021.09.05 06:30:43
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