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カテゴリ:シルクロード
興福寺・阿修羅のまなざし (22年4月7日、カルチャースクール「シルクロードのロマンと仏陀の道」を受講して) 4月7日、朝日新聞社主催・カルチャースクールの22年4~6月期講座の第1回を受講しました。今期講座のテーマは、天平時代の仏教美術が中心で、第1回は興福寺の阿修羅像です。 (上の画像の説明・興福寺・阿修羅像です。編集人 吉岡哲巨、仏像がわかる本、双葉社、2009年9月30日発行、7頁の写真をスキャンしました。) ◎興福寺の西金堂 興福寺のみ仏の中で魅惑的なものといえば、まず阿修羅像があげられます。歴史の教科書にも出てくるだけに誰もがよく知っており、興福寺の食堂跡に建てられた国宝館で、私たちは阿修羅像をはじめとする天平時代の優れた仏像にめぐりあうことができます。阿修羅像は、東京や福岡はじめ、全国各地で反響を集めたことも記憶に新しいところです。 興福寺は藤原氏の氏寺で、藤原鎌足の妻・鏡女王が、鎌足の造った釈迦三尊像を安置して京都山階に寺を建てたのが初めといいます。その後、寺は飛鳥に移されて厩坂寺とよばれ、さらに平城遷都にともなって平城京に移され、興福寺と称するようになりました。 遷都後まもなく、藤原不比等(養老4年(720)死去)によってまず中金堂が建てられ、つづいて養老5年、不比等の1周忌に北円堂が完成します。神亀3年(726)、不比等の娘宮子(文武天皇妃)を母とし、同じく不比等の娘光明子を皇后とする聖武天皇が東金堂を建て、天平2年(730)には光明皇后が五重塔を建てました。このように藤原氏およびそれと関係の深い皇室の力で、興福寺はめざましい発展をとげたのです。 (上の画像の説明・藤原氏系図です。22年4月7日の今回講座「興福寺・阿修羅のまなざし」の資料1の図をスキャンしました。) 天平5年(733)正月11日に光明皇后の母、橘三千代がなくなると、皇后はその追善のため東金堂と対称の位置に西金堂を建て、1年間で建築と仏像を完成して、1周忌にあたる翌年正月11日に盛大な供養を営みました。 このとき、興福寺国宝館の仏像の多くを占める旧西金堂の仏像は、単体としてではなく、群像の一つとして造仏されたのです。阿修羅、迦楼羅、伝沙迦羅などの八部衆像、富楼那、須菩提などの十大弟子像......。これらの像は、今は境内の芝地となっている西金堂に、本尊の釈迦三尊を取り囲む28体の群像として安置されたものでした。 西金堂は4度火災にあいました。最初は永承元年(1046)で、このときはすべて救い出された仏像も、治承4年(1180)の平重衡の兵火のさいには本尊以下の多くを失いました。次は嘉暦2年(1327)、最後が江戸時代の享保2年(1717)です。この後西金堂はついに再建されないまま現在に至っています。 (上の画像の説明・興福寺の伽藍配置です。編者 奈良文化財研究所、奈良の都、岩波新書、2009年5月15日発行、61頁の図をスキャンしました。) しかし、たびかさなる火災にもかかわらず、そのたび奇跡的に救出されてきた創建当初の阿修羅など八部衆と十大弟子の像は、もとの食堂の跡に建てられた国宝館に、他の寺宝とともに安置されて、私たちを出迎えてくれているのです。 尚、阿修羅像の制作技法は当時最新の技術「脱活乾漆造」、作者は百済からの渡来人・将軍万福とされています。 ◎阿修羅の源流 阿修羅とはサンスクリット語のアスラ(ASURA)の音を漢字に当てはめたもので、紀元前12世紀頃から数百年かけて完成したアーリア人の聖典「リグ・ヴェーダ」にその名が見られます。 インド神話に登場する阿修羅は、つねに戦いを好み最高神の帝釈天と争う悪神で、温厚で博愛に富む善神のデーヴァに敵対していました。 あるとき阿修羅は釈迦の説法の邪魔をするため、悪神たちと法話を聴いていました。悪神たちが邪魔をしはじめたところ、説法に感動した阿修羅は悪神たちに怒り、追い出してしまいました。その後、釈迦のそばに近づき、心静かに説法を聴いていました。こうして阿修羅は、仏法を守護する八部衆の一人となったのです。 ◎阿修羅の美 講師の児島健次郎先生は、阿修羅の映像を見ながらその美について語られました。 3つの顔と6本の腕を持ちながら絶妙なバランスで見る者を魅了する阿修羅像。直立した左右相称の姿に、敬虔な意思を感じさせます。上半身は裸でありながら、腰回りの裳は優雅さを漂わせています。足先を少し開き洲浜座(海に突き出した砂浜の形に擬した台座)を踏まえる細身の立像。特にその顔に魅せられる人が多く、純粋で美しく少し憂いをたたえた少年のようでもあり、少女のようでもある童顔が人気の秘密です。 見る人の感性によって、清純な少年とも少女ともみえる所に阿修羅の神秘性と限りない魅力があるのです。 (上の画像の説明・興福寺・阿修羅像です。編集人 吉岡哲巨、仏像がわかる本、双葉社、2009年9月30日発行、6頁の写真をスキャンしました。) ◎阿修羅のモデル 阿修羅のモデルについても、興味ある説明がありました。 阿修羅の身なりは、裾を長く引いた正装でも礼服でもありません。どう見ても日常生活で自由に動き回るときの普段着です。しかし、海の向こうから渡って来たと思われるその南方系のファションは、恐らく当時の先端を行く最新の流行であったのに違いないのです。 正倉院に納められた聖武天皇の愛用品のほとんどが、ペルシャと唐から海を渡ってきた最新で最高級のブランド品揃いでした。 物心ついたころから、当時は世界一であった唐の文化に、最も敏感なアンテナを備え、なにもかも唐風一辺倒の家に育った光明皇后が、海外の最先端のファッションに敏感でなかった筈はないのです。服装は庶民的なのに、舶来の最高級ブランド品であったに違いないアクセサリーを身につけています。 仏法の守護神・阿修羅のモデルとして、日常の普段着で仏師の前に立てるのは、ただ一人しかいないのです。阿修羅の顔で、多くの人が一番強く印象づけられるのは、強く寄せた眉の間に漂う深い憂いと悲哀の色です。それは苦悩の絶え間がなかった光明皇后の内心から滲み出たものだと思えるのです。 阿修羅造仏のおり、光明皇后は30代の前半でしたが、天平の昔にあっても光明皇后はその年齢で少年の体つきと、少女の印象を兼ね備えた女性であった可能性を否定することはできません。 興福寺の阿修羅像は、常に苦悩を内に秘めながら、仏法の強力な守護神となるために、多くの敵対者を向こうに回して、夫の聖武天皇をしっかりと支えた光明皇后の肖像と観られるのです。 (上の画像の説明・興福寺・阿修羅像です。詳説日本史、山河出版社、2007年3月5日発行、口絵11頁の写真をスキャンしました。) ◎結び 歴史と伝統に彩られた奈良。シルクロードの影響を受けた文化が花開いた国際都市でもありました。今年は平城遷都から1300年。奈良では、多彩な催しが続きます。 私も、久しぶりに平城宮跡、今回学んだ興福寺、次に学ぶ薬師寺、唐招提寺、東大寺など奈良の古寺を訪れたいと思っています。そして、仏像の前に立って、その表情、身ぶりに昔の人が託した想いを感じたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.09 19:48:41
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