熊野にオレンジホテルあった頃
熊野市久生屋町の山の上に「くまのオレンジホテル」約50年前にオープン、そして約40年昔に廃業ホテルはもう少し早く営業終了、ボーリング場のみ営業されていましたあの時代、大型観光バスを何台も貸し切り、団体での旅行が流行っていましたホテルと近くの金山パイロット農園へミカン狩りに来られるお客も大勢町内中に、ミカン音頭が 一時の活気でした10年以上寝たきりだった祖母の「み子」祖母ちゃんも音頭を聞いて・・・ 南海グループや近鉄が進出今の熊野市民でも近鉄ロッジなんて知らないでしょうね鬼が城センター入口の国道42号線沿いに建っていましたね熊野無線クラブ 会員200人位居ったでしょうかロッジで忘年会クリスマスのどっちか忘れましたがね行いました私がクラブの会計か理事をしていた時です熊野が観光で活性化なんて無理でしょう多くの方に熊野に来ていただき、楽しんで頂きたいのですがその波及効果は限られ、子育てすらできない低所得者ばかりに市の人口の半分が60歳以上 約16000人の人口 20年先、約8000人が居なくなり 2000人が出生したとして人口は10,000人をきるでしょうね三重県人口の1パーセントもないのに県のテコ入れも相当なものですが社会経済構造を変えない限り過疎は止まらないでしょうそれに、四日市、鈴鹿、桑名方面の県議さん達にとっては南部に多額の県費を投入することに、いい感じはないでしょうしね道路ができても人口増えましたか簡易保険事業団が運営する保養センターも45年位前にオープンのちの簡保の宿私も少し関わっていましたが、最初からお客さんが少なく親方日の丸経営でしたしねセンターの当初のトップの役職名は所長 のちに総支配人とうろ覚えであいまいですが、渡り族って言われていたような気がします初代所長と私はトラブリ当時の職員さんは私が正しいと思っていても口に出せる空気ではなかったのです売店やリネン関係を仕切っていた組織も郵便局関連の簡易保険加入者サービス協会トップは熊野支部長と呼ばれていました私、ある人に頼まれて初代支部長の接待で地磯の猪鼻に海釣りに昔も今も変わりません 既得権、癒着、接待、談合、裏社会で表社会を決めるそんな世の中を変えない限りデジタル社会リモート勤務などと言っても地方は浮上しないのです通信会社のコアルーターの不具合で日本中がパニックデジタル社会がいかに脆いか露呈しましたね生活スタイルも見直し、人間味のある社会に過疎でもいいのです、ド田舎を売りにする観光にするのです心に残る熊野観光に昔のように、近所の家との貸し借り「おばさん塩かして、醤油かして」「おじさん、今日は家の風呂桶を五右衛門風呂にお父ちゃんが工事 なので今晩、風呂いらしてください」「おお、入りにおいでや」昭和45年位までの生活が人間らしさがあったような気がしますそういう真のに人間らしさで接客、実相の社会ですね 涙を流して、売られていった農耕牛 なんか急に思い出しましたね昔の人は良く働きましたしかし、週休二日、三日とかのサラリーマン 農業する人はより減少しますよね子育て支援しても、多くが農業継ぐことなく都市に出ていく要因なのです