黒井城(兵庫県)
H29.11.5訪城黒井城[住所]兵庫県丹波市春日町黒井猪ノ口山[比高]220m[アクセス]福知山線「黒井駅」より登山口まで徒歩15分 山頂まで30〜40分[その他]春日歴史民俗資料館にパンフレットあり[参考]丹波市ホームページhttp://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/bunka/kuroijyou.html11月の3連休を利用して丹波三大山城の1つ、黒井城に行ってきた。〜丹波三大山城〜八上城(篠山市)、波多野氏八木城(南丹市)、内藤氏黒井城(丹波市)、赤井氏自分の主戦場が関東であるため、この辺の地域については某野望での知識しかないですがご容赦を。登山口前駐車場の石碑丹波は山がちな地形かつ北西〜南東に長く、 亀岡盆地では京都との結びつきが強く、福知山では山陰との結びつきが強い、などとまとまりがない。強力な支配者が生まれにくい土壌であり、数多くの国人によって支配されていた。この辺りの風土は信濃に似ている。4つの平で県民性も違うとか。猪ノ口山遠景、道の駅より丹波の国人領主の中での盟主的存在が、氷上盆地(丹波市)の荻野(赤井)直正篠山盆地(篠山市)の波多野氏であるわけだ。畿内の影響力を強く受ける亀岡盆地は、守護代の内藤氏に松永久秀の弟が婿養子として後を継いでいる。福知山盆地では信濃小笠原氏の流れとされる塩見氏が支配していたとされる。影が薄いのかあまりよくわからない。毎年11月第2土曜日に行われる祭りさて、黒井城主荻野(赤井)直正は明智光秀の第一次丹波侵攻をけちょんけちょんにして、「丹波の赤鬼」と言われ、かの有名な『甲陽軍鑑』では名高き武士の筆頭として扱われている。他に徳川家康や長曾我部元親が挙げられている。興禅寺戦国期の山城は基本的に詰城で、平常時は麓に屋敷を構える根小屋式が基本。黒井城はその様式を色濃く残す貴重な例である。上載の写真は荻野直正の下屋敷、落城後は斎藤利三の屋敷となったと伝えられる。獣避けの柵この辺りではどうやら全ての山に獣避けの柵があるようで驚いた。ここの扉を開けて入山する。松茸の取れる山らしく、登城者は道を外れないように、と書いてある。余談だが、一番上に載せておいたリンクから城のパンフレットをダウンロードしてみてほしい。マトモな縄張り図さえ載せないものもある中、このパンフレットは黒井城はおろか、派生した尾根にある砦の縄張り図や、氷上盆地における古街道や支城配置図までかなりの情報量である。全国の自治体はこのパンフレットを是非参考にしてもらいたい。そういえば、10月に八王子市が出した中世マップ?の出来も素晴らしかった。広げた新聞サイズの地図に当時の街道や峠、さらには古城や宿場まで書いてある。東京に住んでいる人は是非一度目を通して欲しいと思う。石踏の段跡(せきとうのだん) と山門山の中腹には段々状の郭と門があり、休憩スペースのようになっている。内部の上の方に二段の由緒書きがあり、抜粋すると、赤井直正が"石塔の段"に城の守り神として薬師如来を祀る堂宇を建てた。廃城後は城下町に移していたが跡地に復興させたというようなことを一段目に書いていた。昭和34年と書いているにも関わらず、なぜか擬古文で読みにくいことこの上ないが、板木は綺麗で読みやすい。二段目には平成22年に修復したよ、とのこと。眺めも良いので休憩してみては?なお、このような郭以外の防御施設は登山道では見つけられなかった。強いて言うなら竪堀か沢なのか判別不能なもの。東郭櫓台。山頂を囲うように張られた獣避けの柵を越えるとまず東郭が見えてくる。高さ2m横6mくらいの櫓台だ。南西向きの高石垣。帯郭には高さ6mほどの高石垣が。反対側(北東向き)は10〜15mほどの切岸だが、石垣ではない。おそらく城を落とした明智勢が、南側の城下町に見せるために石垣を高く作ったのだろう。氷上盆地を一望できる。縄張りに特徴的なところはあまりない。というのも登山道こそ整備されているが、基本的には急な斜面ばかりである。天険の要害であるため複雑な縄張りではないのだろう。北条氏の横堀を駆使した複雑な縄張りを見慣れている自分としては、少し物足りないところもあるが、石垣があるだけで感動ものであった。