おいしいお茶のいれ方 と 光成少年
おいしいお茶のいれかたをNHKの番組「プロフェッショナル」で知った。 それが熱湯だった場合、急須へ入れるお湯は薬缶やポットから直接入れるのではなく、何個か用意した茶碗に二、三回うつしかえてから急須へ注ぐのだという。 約98℃の熱湯も湯呑から別の湯呑にうつすと10℃ほど冷め、三回うつしかえると約70℃になって、熱湯を注ぐと現れる渋み成分が温度を下げたことで甘み成分が姿を見せるとのことだった。 試したら明らかに違う。 姉が「だったらポットの設定初めから70℃にしていたら」と言った。 私はその言葉に違和感を残したまま床に就いた。 布団の中で、前に途中まで読んでなげだしていた小説のことをを思い出した。 成人前の幼きころの石田光成と豊臣秀吉の初対面のシーン。 光成は寺の小僧だった。 秀吉が旅だったか、何だったか、体力が消耗し、ひどく喉が渇いていた。休憩のために腰をおろした寺の縁側で、秀吉は挨拶をかわした小僧に「茶をくれんか」といった。小僧は静かに返事をし、背中をむけた。 剃りあがった頭で盆を持つ腕をのばした。秀吉はお茶をとった。 口にしたお茶は思いのほかぬるかった。秀吉は思わず一気に飲み干した。のどに緊張をあたえず、お茶が自分で流れて行ったのだろう。 秀吉は小僧の持つおぼんに湯呑をおいて、指を一本立てた。小僧はすぐに察したようすでにこりとした。 一杯めより温かかった。しかし、一息で飲んでしまえる温かさだった。 秀吉は心地がよくなり、膝を打つ気分でもう一杯と言って、今度は小僧の細く白い指に手渡した。 茶が唇にふれる前にあきらかな温度の違いに気づいた。警戒にも似た緊張が秀吉にお茶をなめさせた。十分に咽は潤い、光成は口の中でで冷ますうちに味わいをもてなしたのだろう。 気づかい、心づかい、もてなしの心というのは利益、みかえりを求めた、もしくは意にした瞬間に消えてしまうものなのではなかろうか。 表情や姿から者の欲することを察し、何かを添える。 火のない場でぬるい湯を熱くするは難しいが、熱いものは容易に穏やかにできる。 強さを身につけ、心を鍛えれば、人によって必要な優しさを変化させて分けることができる。 ただ弱ければ情けをかけて終わることが少なからずある。 力はなくとも、知識、知恵をもってすれば己より人として大きい人間へも優しさを感じさせれれる。 そういった人為を自然にできるのが癒しというものではなかろうか。 私が姉の言葉にもった違和感はなんだったのであろうか。 たった一度でも沸点に達した経験があるからぬるくもできる。やさしくもできる。水と合わせれば何倍かのぬるま湯も作れる。 時には渋みがうま味より大事な時も生きていく中で必要なときもありそうだから、いざという時のためにも、熱湯から手間を惜しまず、もてなしを。