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テーマ:中学生日記(473)
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(1)1577年長浜から姫路に移り、中国経略に着手した。
(2)1581年6月鳥取城包囲(食料不足を待つ) (3)10月鳥取城の城門を開いたがその時、餓死病死、数え知れず、生存者も、重病か栄養失調。信長“武勇の名誉、前代未聞”とたたえる。 (4)1582年5月備中・高松城包囲(城主・清水宗冶)秀吉は城の周囲4キロ、高さ7mの堤を築く。近くの川注いだ。そして城兵を閉じ込め兵糧米を枯渇させ投降させようと考えた。 (5)5月15日秀吉は、信長に毛利撃破するために信長自身の出陣を求めた。 (6)1582年5月16日信長は光秀に秀吉の応援を命じた (7)17日光秀は、近江・坂本に帰り出陣の準備をした。 (8)26日光秀は、丹波・亀山城に移った。 (9)27日光秀、神社で戦勝祈願をした。 “時は今 あめ 下しる 五月哉” 土岐=明智 天下 治める (10)6月1日夕 亀山城出発し、西へ向かった。1万3千の兵 (11) 2日深夜 条野到着ここで方向転換し東へ向かった。 (12)6月2日信長は目覚めて洗顔している頃であった。 (13)信長“これは謀反か。いかなる者の企てか。”部下“明智か者と見え申しそうろう。”信長“是非に及ばず。(俺のしたことがうかつであった。周辺の警戒を怠ったがために光秀に付け込まれた。真空状態を造ったのは自分の失敗だった。)午前7時信長死去 49歳 ここをクリックしてください お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月28日 20時34分39秒
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