岡山城
オキシペタルム山陽道沿いにあった主要な城は、幾多の戦火や政治的意図を潜り抜けて生き残っていた。だが、残念なことに、第二次世界大戦の空襲でその多くが焼け落ちてしまった。岡山城の天守閣も、昭和20年に焼失し、現在ある城は復元されたものである。岡山城は別名烏城と呼ばれ、黒々とした外観は重々しい風格がある。この城の軍事、海運上の重要性は、築城から時が経るほど高まっていった。それに目をつけた宇喜多直家は、謀略をめぐらして城主の金光宗高を殺してしまい、戦もしないで城を手に入れてしまった。直家は領地を拡大し、城の改築をして、城下町を整備し、その上山陽道の道筋まで変えてしまった。直家は勢力を広げたが、織田家と毛利家がしのぎを削っている中で、呆気なく病死してしまった。跡継ぎは、僅か9歳の八郎で、策士であった直家を失った家臣たちは、城主の急死を翌年まで隠し続けた。やがて、織田家の家臣羽柴秀吉が城を訪れた時、八郎の母であるお福は、我が子の将来を秀吉に託そうと考え、秀吉を歓待した。八郎は秀吉の側近となり、名前の一字をもらって秀家となった。前田利家の娘、豪姫を娶り、備前から美作、備中東部、播磨西部を領地とし、五十七万四千石の大名になった。秀吉は、天下平定に一息つくと、秀家に城を改修するように勧めた。秀吉の縁者として「相応しい城にしろ」というわけだった。五層六階の威風堂々とした烏城が築かれたが、秀家はこの大事業を楽しむ余裕はなかった。3年後には、関が原の合戦になり、秀家は西軍の副将として戦ったが、敗れて八丈島へ流されてしまった。岡山城には、小早川秀秋が入城した。秀吉の甥で、幼児の頃から秀吉の養子として育てられたが、関が原では東軍に寝返った男だ。秀秋は、城をさらに改築した。しかし、入城して2年ほどで若死してしまった。死因は不明で、色々な説が取り沙汰された。