万葉集
モチツツジ 大伴旅人山上憶良とともに「筑紫歌壇」を形成していた。大伴氏は大和朝廷の軍事を担当する有力氏族で、旅人の父安麻呂は壬申の乱で大海人皇子側で戦い、功績をあげた。しかし持統・文武時代の大伴氏には風雅な人が多く、旅人も和歌や漢文学に優れていた。旅人の弟の田主も風流士と呼ばれた人物であり、また妹の坂上郎女にいたっては、女流歌人の第一人者として名を残した。旅人は政治の面でも順調に昇進し、720年には征隼人持節大将軍(せいはやとじせつだいしょうぐん)となり、728年、太宰帥(だざいのそち)として筑紫へ赴任した。その前に、聖武天皇が吉野へ行幸した際の歌。 み吉野の 吉野の宮は山からし 貴くあらし水からし さやけくあらし 天地と長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮(天皇が行く美しい吉野の宮は、山が良く貴い、川が良く清らか、天地は長く久しく万代変わらずこうあってほしいものだ) 昔見し ささの小川を今見れば いよいよさやけく なりにけるかも(昔見た象の小川を再び見ると、ますます冴え冴えと美しくなった) 奈良の都を愛していた旅人にとって、大宰府への赴任は本意ではなかった。太宰帥は名誉ある役職ではあったが、その時旅人は60歳を過ぎていた。その上、大宰府に到着するとすぐ、同行していた妻が亡くなった。故郷から遠く離れた土地での不幸は、老齢の旅人にとって辛過ぎた。 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(この世は空しいものだと知るにつけても、新しい悲しみがこみあげる)