薬師寺から唐招提寺に向かいます。距離にして1kmもありません。これほど近い位置に二つの寺院があるのは少々不思議です。唐招提寺が唐の僧である鑑真による創立であることは歴史をあまり知らなかった私でも覚えています。鑑真は失明し、日本に到着した時はすでに66歳、当時としては相当の高齢でしょうね。ここは晩年の彼が歩いた可能性もある道です。
厳密にいえば薬師寺と唐招提寺は宗派が違いますが、奈良時代(平城時代、平城と書いて「なら」と訓読みしたようです、そのため奈良では漢字を使わず「なら」と平仮名表記することも多いようです)の仏教は創世記であったこともあり宗派を超えた同盟関係にあったようです。平安以降のような武力衝突ということはなく、寺院同士は協調関係にあったことがこの二つの位置関係からもわかります。
私が子供の頃は仏教があまりに政治に関与してきたため平城京は長岡京に移ったというように学びましたが、今の教科書は「水不足だった」事が遷都の主な理由になっているようです。しかし鑑真が奈良に到着する前に、興福寺、東大寺、薬師寺(当時は平城京内にありました)などがひしめき、唐招提寺までできたことでお寺だらけの都市だった事を考えれば宗教が遷都の大きな理由だったことに間違いはないはずです。(貴族の土地は平城京の5%程度だったという話も。)この私が育った数十年の間にも日本は更に宗教を忘れつつある、理解できなくなりつつあるのです。
貴族にしてみれば水もなくなったのでしょうが寺院による占領(荘園)に押しやられ、住む土地がなくなっていたのかもしれません。