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カテゴリ:’13ドラマ
「会津の決意」 第6回の視聴率は、前回の18.1%より急落してしまい、15.3%でした(汗) きっと裏の「四大陸フィギュア・女子シングルフリー」に食われてしまったのでしょう。 素晴らしかったのに、残念です。
京都守護職という大変なお役目、容保、皆の反対を押し切って、受けてしまいましたね。 これを受けるまでの松平春嶽(村上弘明)と容保、そして、頼母と容保のやりとり、緊迫感がありました。 特に、西田敏行さんと綾野剛さんのやりとり、どちらも名演技でした♪(^^) これで会津藩の悲劇が始まってしまうんですね。 その重要な分かれ道でした。
井伊直弼が亡くなった後、彦根藩が10万石の減封処分を受けたなんて、びっくりです。 被害者側なのに、なぜ減封されてしまったのでしょう? いくら尊王攘夷派に押されたとはいえ、頼母の言う通り、ほんと死に損ですね。 それを聞くと、水戸藩をお咎めなしにしたのは間違いだったのではないかと思うのですが(^^;) 尊王攘夷派にとっては、都合のいい事だったので、容保の鶴の一声で、水戸藩への処分がなくなったのではないかと、思ってしまいました(^^;) とにかく、井伊が殺された事によって、事態は一変しました。 薩摩の圧力により、政事総裁職と、将軍後見職が新設されました。 世継ぎ争いで負けていた徳川慶喜(小泉孝太郎)が将軍後見職になり、松平春嶽(村上弘明)が政事総裁職になりました。 本人達は、こんな職は不満なようですが、返り咲きの一歩でしょう。 江戸では勅命を携えた薩摩が、幕府に対し、将軍の上洛を迫りました。 春嶽は、上様ご上洛の前に不逞浪士どもを追い払うため、1日も早く京都守護職を置くよう慶喜に提案。 薩摩が立候補しているそうですが、慶喜は、薩摩は嫌だと言いました。 春嶽が、会津の容保が適役ではないかと提案。 彼が容保を説得しました。 京都守護職とは、宮古にばっこする浪士をかつてない強大な兵力で鎮めるという極めて重い役目で、新設されました。 容保、最初は固辞したのですが、春嶽に会津藩の御家訓を持ち出されて、断れなくされました(^^;)
春嶽「会津松平家には、藩祖・保科正行公が定められた土津公御家訓(はにつこうごかきん)なるものがあると聞きおよびまする。 御家訓には『徳川宗家に忠勤を尽くすべし』という一条があるとか。 ご下命に従わぬば、御家訓に背く事ではござりませぬか?」
それで受ける事にしてしまったようです(汗) 「土津公御家訓」とは、「会津家訓十五箇条」の事でしょう。 初代会津藩主・保科正之が寛文8年(1668年)4月11日に定めた、会津藩の憲法のようなものです。 保科正之は、2代将軍・秀忠の息子です。 母は正室の江ではなく、秀忠の乳母・大姥局の侍女・志津でした。 恐妻家の秀忠は江を恐れて正式には認知せず、正之を武田信玄の娘・見性院のもとにかくまいます。 その後、正之は7歳のときに高遠藩保科家に預けられ、後に養子となり高遠藩3万石を継ぎました。 家光は聡明な正之をかわいがり、その死に際には枕もとへ呼び寄せて「徳川宗家を頼む」と言い残したとも伝わります。 (公式HPより引用)
実際の「会津家訓十五箇条」の第一文はこのようになっています。 「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」 この意味は、 「将軍家には忠勤を励むこと。他の藩を見て判断するな。 もし将軍家を裏切る藩主があれば、それは私の子孫ではないから、家臣はそれに従ってはならない」という徳川家への絶対的忠節を命ずるものでした。
容保は、先代の8代容敬(かたたか)の甥で、高須藩松平家から養子に入り、17歳で藩主の座を受け継ぎました。 そして、この頃、ようやく10年が経った頃でした。 養子だったので、いい藩主になろうとして、この家訓を大切にしたのかもしれませんね?? もう200年も前の物だから関係ないと、春嶽に断る事ができたら良かったのに(汗)
会津藩の重臣達は、容保から京都守護職を受けると聞いて驚きました。 特に、頼母が大反対しました。 そのシーン、迫力があったので、書き写します。
田中「殿、どうか守護職拝命の儀、お断わり下されますよう・・・ 蝦夷の警護、房総の守備、品川砲台の守りと、大役を務めて参り、この上の京都出兵はとても耐えられませぬ」 容保「守護職のお役目、お受けする」 頼母「なんと・・・」と驚く。 横山「都のありさま、国元にも聞こえておろう。秋月・・・」 秋月「はっ。都は諸藩の武士で溢れかえっておりました。 長州・土佐らは、即刻、攘夷を唱えて策動し、不逞浪士が益々勢いづいておりまする」 頼母「さればこそ、京都守護職を務めれば、会津は政争の渦中に巻き込まれるは必定にござりまするぞ!」 容保「会津は強い。公武一和のため、都を守護し奉る事ができるのは我が藩をおいてない」 頼母「いや、薪を背負って火を消しに行くも同然の危うい役目でござりまするぞ」 横山「頼母殿、殿は幾度も強くお断わりなされたのじゃ」 頼母「さればさればされば、断固として断固として、ご辞退くだされますよう」 横山「頼母殿!」 頼母「殿・・・井伊掃部頭様の悲運を何と思し召されまするか? ご公儀は、尊王攘夷派におされ、彦根藩を10万石の減封に処せられた。 掃部頭様は死に損でごぜえまする。 いざとなれば、ご公儀はトカゲの尾の如く我らを切り捨てまする。 恐れながら、殿は会津に彦根と同じ道を辿らせるおつもりでござりましょうか?」 容保「大君の儀」 一同、ひれ伏して、聞く。 容保「一心大切に忠勤を存ずべし。二心を懐かば、我が子孫にあらず。 徳川ご宗家と存亡を共にするのが、会津の務め。 是非に及ばぬ! この上は、都を死に場所と心得、お役目を全うするより他はない。 皆・・・覚悟を決め、わしにわしに力を貸してくれ」と頭を下げる。 田中「殿・・・」と驚く。 頼母「得心がいきませぬ。 此度の事は会津の命運を左右する二股道にござりまする。 おそれながら、殿は会津を滅ぼす道に踏み出されてしまわれた!」 容保「頼母! 言うな・・・」と涙ぐむ。 皆、泣く。
文久2年(1862年)閏8月1日、容保は京都守護職を拝命。 容保の上洛は、その年の師走と決まり、1000人の会津藩士達が共に京に向かう事になりました。 覚馬も同行する事になりました。 うら「お殿様のお供さ、仰せつかるのは名誉な事だがし」 八重「はい」 うら「んだけんじょ・・・」(背負った赤ん坊が泣く) うら「やっと、この子が産まっちゃのに」
八重の幼なじみの山川大蔵の姉・二葉(市川実日子)が、会津藩の有望な家臣・梶原平馬(池内博之)の元へ嫁ぐことが決まったり、彼女との薙刀対決とかいろいろありましたが、それも京都守護職へ結びつきました。 梶原が京へ同行する事になり、二葉は武家の妻としての覚悟が備わり、八重に薙刀勝負、勝ちました。 出発前に祝言を済ませ、二葉も後で上洛するそうです。 皆、出陣の覚悟で上洛し、二葉もいざという時は薙刀をふるって家を守る覚悟だそうです。 武家の妻だから。
京都守護職という任務について、上の人の視点だけでなく、家族の視点や一般人(八重)の視点からとか、いろいろな角度で描かれていて、良かったです♪ 本当に、トカゲのしっぽ切りをされそうで、切なかったです。 覚馬が無事に帰ってくるのは知っていますが、妻の立場だと心配でしょうがなかったでしょうね。
次回は、「将軍の首」 神保修理役で斎藤工さん、八重の幼なじみ・日向ユキとして剛力彩芽さん、孝明天皇役で市川染五郎さんが登場します♪ 楽しみです♪(^^)
【第6回あらすじ】 (Yahoo TVより) 八重(綾瀬はるか)の幼なじみの山川大蔵(玉山鉄二)の姉・二葉(市川実日子)が、会津藩の有望な家臣・梶原平馬(池内博之)の元へ嫁ぐことが決まった。しかし八重には縁談が来ず、佐久(風吹ジュン)は鉄砲を撃つ娘を望む家などないと嘆く。一方、江戸では勅命を携えた薩摩が、幕府に対し将軍の上洛(じょうらく)を迫る。これを受け、幕府は京都守護職の選任に着手し、政事総裁職の松平春嶽(村上弘明)は、かねて卓見で目を引いていた会津藩主・容保(綾野剛)に白羽の矢を立てる。覚馬(西島秀俊)は頼母(西田敏行)に断るべきだと進言。頼母も同じ考えであることに安心する。容保も固辞し続けるが、春嶽は会津の"御家訓"を持ち出し、将軍家の下命として従うことを強要。容保は守護職を受諾せざるを得なくなる。
【視聴率推移とレビューリンク】 (視聴率は関東地区) [第1回]21.4% [第2回]18.8% [第3回]18.1% [第4回]18.2% [第5回]18.1% [第6回]15.3%
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