カテゴリ:ブログ小説
例の物のせいで、背中を地面から引き離すことができない。どうにもすぐには起きあがれそうになかった。
気が付くと、目の前で一人の中年男が壁にもたれかかっていた。どうやら、路地に面した階段を駆け下りてきたその男とぶつかってしまったようだ。彼もすぐに空美に気づき、何が起きたのか理解できたようだった。 「大丈夫?」と空美の背後で声がした。振り返ると、中年の女性が赤提灯の店から顔を覗かせていた。空美の悲鳴を聞きつけたのであろう。 再び男に目を向けると、目の前に居たはずの中年の男は、こちらに背を向け歩きだしていた。どこかぶつけたのか、少し足を引きずっているように見えた。 空美が立ち上がろうともがいていると、また「大丈夫なの?」とさっきの女性が声を掛けてきた。「大丈夫です。ぶつかっただけだから」と言うと、安心したのか中年女性は店の中に消えた。と同時に男の姿も路地から消えていた。 何とか立ち上がれる体勢をつくり、屈んだ状態からお尻を持ち上げようとした時、目の前に何か落ちているのに気づいた。 夕方の狭い路地の薄暗闇の中に見つけた物は、──鍵? 拾ってみると、確かに鍵のようだ。よくある部屋の鍵ほど大きくはない。どこか見覚えのある鍵に思えた。 ──さっきの人が落としたの? ふと中年の男が下りてきた階段に目をやった。その昇り口には「泰江商会」とゆう粗末な小さな看板が掛けてあった。階段の上は明かりも点いておらず真っ暗闇だ。 その闇をじっと見ていると、何か得体の知れない物が潜んでいそうな気がして、空美は一瞬背筋に寒気すら覚えた。 ──そうだ、あの人を追いかけないと 空美は奮起して立ち上がると、尻の土埃を払いつつ駆けだした。 路地を抜けると、比較的広い通りに出る。首を何度も左右に振って見渡してみたが、見通せる範囲にさっきの中年男らしい姿はなかった。 空美は見当をつけて通りを右へと走り出した。この方向は中央アーケード街へとつきあたる。 背中に担いだベースが、ゆさゆさと揺れる度に更に加重をかけてくる。うまくバランスを保って走れなかった。ケース中ではガチャガチャと何かが音を立てていた。 「ソラ!」 突然、自分を呼ぶ声が通り過ぎた。 立ち止まって振り返ると、そこにはバンド仲間の千晶がきょとんとした顔で立っていた。白いコンビニ袋を携えている。 「どうしたの?どこ行くの?」 「あ、あのさぁ」 空美は探している男がこっちに来なかったかと尋ねようとした。しかし考えてみると、自分でもさほど男の姿形を憶えているわけではなかった。 ──グレーのスーツに黒か紺のシャツ、黒い革靴、短めの髪型で‥‥ やはり、これといった特徴はない。それでも一応、千晶に告げてみた。だが、千晶も「分からない」と応えるしかなかった。 「その人がどうかしたの?」と不審そうに尋ねるので、空美が数分前の出来事を分かり易く説明しようとすると、「それより練習は?」「もう時間だよ」と、矢継ぎ早に問いかけられて応える機会を与えてくれない。終いには、空美の腕をグイッと掴むと「時間ないよ。練習、練習」と元の場所まで引き戻されてしまった。 結局、男の捜索はあっけなく終了した。そして空美の手元には謎の鍵が残った。 辺りは薄らぼんやりとした闇が支配し始め、街灯には既に明かりが点っていた。しかし、その光を地面に投げかけるほどではなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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