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カテゴリ:覚書き
それは唐突にやってきた。しかし、穏やかに、それとは気づかないようにごく自然な導きだった。この旅がその後の私の人生の支柱となる重大な出来事になった。 何年も前に、私は教師として働いていた。大学を卒業し仕事として何がいいのだろう・・・と漠然と思っていた。しかしながら、両親が教師の家に生まれ、女性として一番恵まれた職業は教師、と信じて疑わなかった母親の影響で、大学でも心理学専攻とはいえ教職課程もきっちりこなし、姉妹も順調に教師(夫たちもしかり)になって、私も教師になるしか道はなかった。なぜか採用試験に受かってしまったのだ。 なじめなかった・・・・。学生時代に学業は別として、気ままな生活を楽しんでいた私には子どもたちというより、職員室の大人とどう付き合えばいいのかさっぱりわからなかった。その頃、大人は「いい人」か「うるさい人」の2種類しか存在しないと思い込んでいた私には注意されるとめげ、励まされてもなにか違う人種の中にポツッと一人置かれたような心細さと反発心を感じたものだ。 障害児学級の副担任だった。子どもたちとは会うのが楽しみだったが、職員室にいると息苦しく、一刻も早くここから出たいと思うのが常だった。 終いには十二指腸潰瘍まででき、一年でやめた。仲良しになったクラスの子ども達や親御さんと別れるのは辛かったし、親切な熟年先生に引き止められ、親にとめられたけど・・・・・。 最後の挨拶を終え校門を後にするときは、「解放された!」という喜びが体中を駆け巡ったことが忘れられない。 辞めたのが3月、5月の終わりには私はインドにいた。ある世界的な組織であるボランティアグループの派遣を願い出たのだ。実はこの活動には学生時代から関わり、大学が休みになると、農場でボランティアをしていたのだ。牛舎の掃除(牛に蹴飛ばされた)、夏は牧草刈、やることは沢山あった。ここは私と世界の接点だった。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカなど様々な国のボランティアたちが参加し、ともに働き友好を深める場でもあった。なので、そとでの労働は慣れない私でも非常に楽しかったのだ。 一人で旅立った。タイ、バンコック経由だ。国内線はともかく外国に行ったこともない私が一人で旅立ったということを考えると、今でも冷や汗がでる。すごいなあの頃の私は・・・。しかし立ち寄ったタイが気に入り予定をオーバーし、1週間も滞在してしまった。異国情緒溢れるタイが楽しかったのである。そしてカルカッタ(現在はコルカタ)空港、インド人が不気味に思えた。なにが珍しかったのか、全員(半径25メートル)のインド人が私をみるのだ。まるで私が世話をしていた牛舎の牛たちのように。あの時代に女の子の一人旅(しかもインド)は考えられないことだったわけで、心配、好奇心のこもった眼差しだった、と今はわかるが・・・。 今も昔も変らないインドだが、やはりバンガロール(現在はベンガルール)行きの国内線は大幅に遅れていた。空港内のレストランで待つ事3時間やっと乗れた。その間中視線にさらされていたことになる。けっこうこれが辛いのだ。(最初は注目を浴びてちょっと嬉しかったが) バンガロールは南インドにあり、デカン高原の端に位置している。従って気候は最高でインドとは思えないほど涼しい。常に涼風が吹き渡りインド人の上層階級の人々が多く住んでいたことでも知られているカルナタカ州の州都である。現在はバンガロールはインドのシリコンバレーといわれ、大小あわせて2千社もの、IT企業が軒を連ねているらしい。 到着は夜。農場に行くには遅すぎる。ということでタクシーの案内するホテルへ。行き先の住所ももっているし、安心だ。ということでホテルの部屋でシャワーを浴びインドの大地での弟一日目が暮れていった。 ー続くー これは覚書です。日々、これらの日々が遠くなりつつあり、いつか書き留めておきたいこととして心に温めてきたお話です。
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