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テーマ:最近観た映画。(39546)
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ネタバレ注意
わたしは、他の方の批評と、かなり違った視点から、この物語を考察していこうと思う。
そして、ケンヂは、当時、自分が盗んだ駄菓子の景品を、自分がやったとは言えずに彼にそのとばっちりが行き、次第に彼(ともだち)はいじめにあうようになる。 もし、ここで、ケンヂが一歩間違うといじめの対象になっていたかもしれない。 いじめられる側といじめる側は紙一重なのだ。 話は、最後の場面になって、ともだちの正体が明かされる、が、ケンヂは「よく彼を覚えていない」という。 ここにも、あるメッセージが読み取れるのではないか? いじめる側なんてものは、その記憶は以外にも薄い。しかし、いじめられる側にとっては、下手をすると一生の傷ともなりえる。 戦争しかり、今の日本の戦後65年の2度と繰り返さず、あの惨劇を後世にまで伝えていこうという認識と、米国では、あれは正義の戦争だったなど、むしろ名誉なことで、対して感心すらもたない人も多いという。 では、どちらが悪いのかと問われれば、どちらにも悪いというか、足りなかった部分があるのではないだろうか?相互異文化理解の欠如。 今回の友達の話であれば、いじめる側には、いじめられたら(心が)痛いだろうなぁ・・・的な想像力の欠如。いじめられる側では、20世紀少年に習うならば、仮面で自分を覆い隠し、いっこうに自分をさらけ出そう、もしくは、一歩でも歩み寄ろうという、気持ちが出せなかったり、それらお互いの努力が足りなかったのではないか? そこに、後に、ともだちの影武者をやることとなった、子供の時、おなじく仮面を被り、真似して、いじめにあったことのある子が、自分はともだちの孤独感、この世の自分の居場所、いる意味を見出せない場合が多いという意味で、最後の記者会見で、「ともだちはみんなのなかにある」というセリフがあるが、あれも作者の言いたかった本質なのではないか? そんなことをこのドラマはメッセージとして込めているような気がしてならないのです。 究極的には、ある人を孤立させないようにする社会、強い人は、弱い人を守り、得意なことがある人は、不得意な人に教えてあげる。それが根本であり、人間である以上社会的生き物の宿命なのではないかということを私は言っているのではないかと深読みしてみました。 正直、最後のところ以外は、途中アクションエンターテイメント映画でも観てるかのように、また、睡眠をとらせていただきましたが(苦笑)、穿った見方をすれば、最初のともだちの登場シーンの記憶をうる覚え、もしくは、忘れさせる為の作者の時間稼ぎだったのかな? 最終兵器も某ロボコップに出てくる最終敵ロボットに酷似!? そして、最後はバックトゥーザフューチャーネタかどうか、しりませんが、過去に行ける装置を即効でつくり、過去のケンヂとともだちに会いに行く。 未来からきたケンヂが、ケンヂに「万引きしたこと正直に言え!」、ともだちに「その仮面を取ってケンヂのところに行け!」と、お互いの非であったり、もう一歩の歩み寄りを求めたあのラストシーン(今回のTV版初公開!?)で、少しこころ打たれましたね。
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Last updated
2010.11.06 04:54:11
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