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tartaros  ―タルタロス―

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2009.09.19
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カテゴリ:日常の出来事
 舞阪洸「狗牙絶ちの劔1 ―刀と鞘の物語―」(富士見ファンタジア文庫)を読んだ。
 先日地雷だと思った「化物語」よりもさらに爆発力が強かったので、どうしても書かなければなるまいという勝手な使命感に突き動かされてキーボードを打っている。



 ライトノベルは、未だごく狭い範囲の世界しか知らない中高生を主な対象とした娯楽小説であるためか、扱っている「世界」そのものも比例して狭いものであることが多いように感じる。そこでは主人公とヒロインという「君と僕」の出会いが重要な役割を果たしている事が多く、往々にしてストーリー上の重要人物である「君」に相当するヒロインたる美少女は、何か尋常とは違う特殊な能力を持っていたりするものである。
 つまり、それまでごく当たり前の存在であった「僕」たる主人公が初めて物語として成立する非日常の住人となるには、「君」との繋がりを得なければ物語がそもそも始まらない。何でもない普通の男子学生の生活を切り取ってみるのは、覗き見的な下卑た好奇心を満たしてくれるのでそれはそれで面白いのだろうが、エンターテインメント的には明らかに方向性を間違えている。
 
 通常、日常生活に無縁な物を見つけると、人は多かれ少なかれ違和感を抱くものである。例えば、本作で描かれているような「セーラー服の美少女が日本刀」を抱えていたりすると。この書き方だと「灼眼のシャナ」以外の何物でもないが、そもそも「君と僕」という展開の如く、「セーラー服に日本刀」は定式化されている感さえあるので深くは詮索しない。
 主人公の少年は、ある朝、通学路の途中にある公園でセーラー服+日本刀というあまりにもあざとい異様な格好の美少女と遭遇する。……たったこれだけの説明でも、大体のラノベ読みには先の展開の大部分が予想できるのではなかろうか。
 その通りである。大正解(たぶん)。
 案の定、美少女は人間社会に仇なす「狗牙」(くが)なる怪物を討つ裏世界の人間だった!
 わあ、すごい。そして秘密を知った主人公は自らもまた戦いの世界へと――というか、ラノベによくあると思しきこの手のテンプレート的導入が、まるまる本作にも当てはまってしまう。

 それは、まあいい。

「暴れん坊将軍」が最後は必ず斬り合いになってしまって穏便に事件が解決しなかったり、戦隊ヒーローがポーズを決めてる間は怪人が一切手出ししてこなかったりするという、物語における“お約束”みたいなものだと思ってまだ納得できる。
 そもそも先述の如く、ラノベにおいては「君と僕」の関わりの中から物語における世界を動かす要素が紡ぎ出されるのである。だから、主人公がいきなりヒロインを17個の破片に解体しようが、大太刀を振り回す少女に「お前は人ではない。モノよ」と衝撃的な宣告をされようが、それが機械のスイッチのように物語をいい具合に回転させてくれるのである。
 
 だが、忘れてはならないのは、それはあくまできっかけでしかないという点ではないだろうか?

 いきなり謎の美少女に襲撃されて……などというのは常識で考えて有り得ない。その有り得ない展開が起こってしまうからこそ、彼の「日常」は「非日常」へと遥かに遥かに脱線を開始する。そう、全てはきっかけなのだ。毒にも薬にもならぬものが音を立てて崩壊する様を見せつけるのが、「読者をこの先には何があるのか」と期待させる原動力となる。
 つまり、「日常」が「非日常」へと決定的に変わる様が無ければ期待されない。
 だが――崩れた後の瓦礫でもがき苦しむ人をただ見るのと、瓦礫が元の立派な建物だった姿を知りながら見るのと、どちらがより悲惨だというのか。

 本作「狗牙絶ちの劔」における最大の問題点は、まさしくここにある。
 つまり、「日常」と「非日常」の対比が成立していないのである。
 踏み外す前と後、その両面を描写する事によって、物語が物語足り得る「非日常」の姿がより鮮明になるはずだ。だが、この作品では主人公がヒロインと出会ってからのあからさまな「非日常」めいた何物かばかりを性急に追い求め過ぎているように思える。彼の何が日常か、ヒロインと出会ってから日常がどういった形で変質していったのか。その過程がまるで無視されており、“日常のその後”=“非日常”を不用意に重視しているように思えてならない。
平凡さの実体が何らも見えずに曖昧模糊とし過ぎているし、日常から非日常へのシフトを謳うのであれば、二つの異なった状況を明確に対比させて描写すべきだと思うのである。
 
 例えば、橋本紡の「半分の月がのぼる空」という作品がある。
 これは度々「日常を描いて成功した」と評されるが、その実、我々の知っている世界そのものの延長線上に位置する非日常を描いて成功しているとは言えないだろうか。この小説の舞台は病院であり、ヒロインは難病に侵された少女だ。舞台設定そのものは病院という日常で耳にする言葉でしかないが、その裏面には常に生と対置化された死が滞留しているのは言うまでもない。表面上に出ないだけで、彼の地には死が満ちている。それは人間の生命の営みのうえでは致し方の無いことである。そして、ヒロインもまたそうした悲しい日常の延長線上としての非日常に絡め取られる危険性を匂わしながら、「君と僕」を中心とする物語は進行していく。
 常に対置化された生=「日常」と死=「非日常」のせめぎ合いのようなものが、崩落の悲劇とカタルシスを何層倍にも魅せるのだ。

 だが、「狗牙絶ちの劔」はその対比を放棄してしまっている。
 辛うじて存在する日常描写のようなものも、非日常の象徴たるヒロインたちと出会ってからの場面でしかないし、しかもそれ自体が僅少だ。バトルの爽快感さえも殺されてしまっている。


 仮にも「日常から非日常」へのシフトを謳う作品であるのなら、何がどう変わっていったのか、それを明確にすべきではないだろうか。ただ「変わった」と言い続けているだけでは読んでいる方には何が何だか伝わらない。世間の評判はどうか知らないが、俺はこの作品の続刊を読む気には到底なれない。





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Last updated  2009.09.19 22:55:22
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