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聖セラフィムの証拠「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる」

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2020.09.19
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カテゴリ:スピリチュアル
少し前に、家の前に落ちていたゴミや、道に落ちていたゴミのことをメールしました。あの後も目についたゴミを拾うようにしていました。
昨日、自転車で買い物に出かけ、帰る時に、鞄に入れてあったゴミが落ち、そのゴミが風に飛ばされました。自転車をとめてゴミを拾いに行った時、この前からゴミを拾っていることが頭に浮かびました。
ゴミを拾う自分ばかりを見ていましたが、ゴミを落としてしまう時、気づかずにいることもあるのかもしれない、ゴミを落としても風で飛ばされてしまえば拾えないこともあるのかもしれない、ゴミを落としてそのままにしてしまえば、後ろめたさが残るかもしれない等、ゴミが落ちているのにも色々な状況があると思いました。ゴミが落ちていてもマイナスに考えるのではなく、気がついたらスルーをせず、片付けて行こうと改めて感じました。ゴミを拾う自分を見ると自己満足に繋がりマイナスに繋がるということをしっかりと頭に入れます。
自分がゴミを落として感じたことです。

Jophiel


ゴミを劣位の神の左側に持って行くと、「不要なもの」「汚いもの」「排除すべきもの」「煩わしいもの」などになりますが、右側へ持って行くと「愛行のチャンス」となります。
愛行をし続けることによって自らの光=愛も維持でき、更にその光=愛によってアイオーンと繋がり、自ら幸福感も得られます。

ゴミが多いということは、それだけ物質世界が愛を見失い、愛に飢えているのに愛を求めず物に依存している証であり、その物から出たゴミの量でその依存度が推し量れると言えるでしょう。

Jophielがしているごみ拾いについて私が代弁すると、ごみ拾いは物質世界を美しく保ち、そこに住む人たちが気持ちよく過ごすための愛行と言えますが、更に劣位の神の神殿の愛によって光輝く美しさを知っているスピリットからすると、その居心地の良さを物質世界でも再現するために、自ら発する光=愛で周囲を清めようと愛行に勤しむのです。

Seraphim





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Last updated  2020.09.20 07:31:06
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