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カテゴリ:パワーストーン
チベット僧侶の天珠を「偽物」と言い、(現代天珠と老天珠 上 参照) 「『本物』の天珠をみせてやるから、一度見に来い」 といった、その男性があるフェアに出展していたのだ。 某ひろえさんと偶然その前を通りかかったときに、その男性に声をかけられた。 立ち止まった私たちに、すかさず、 「これが、『本物』さ!」 と彼がだしてきたのは、表面がはげていたり、欠けていたりして、たしかに、みるからに古そうな天珠、と天珠の一部。 「僕はね、直接チベットにいって買い付けしているからね。すべて『本物』なんだよね。これなんてね、3000年前にチベット人が実際に身につけていた琥珀のネックレス。年季がはいっているだろう?これも、発掘された天珠。天珠はとにかく古くなきゃね。価値がないよね。ええっと、これは、チベットじゃなくて、古代ローマの装飾品なんだけど、もちろん『本物』で、埋葬品のなかにはいってたんだよね。こっちも古代ローマのね、、、」 と次から次ぎへと、「古いもの」をみせられていくうちに、なぜか、段々気分が悪くなってきてしまったのである。 (そういうものに特に敏感な某ひろえさんなどは、もう話の途中ですでに、「はやく、行こうよぉ、、」と私のうしろに隠れていた。) そのときに私が思ったのは、老天珠は、やはりチベットで「護符」「お守り」的役割を果たしていたのだろう、ということだ。 日本でも、神社でいただいた「お札」や「お守り」は、成就の奉告と感謝と共に、神社に返納する。 愛着があり「お守り」のような品は、故人と一緒に埋葬されることもあるし、遺族が形見として、大切にすることもあるだろう。 それと同じように、お役目が終わった「天珠」、祈願なりを宿した「天珠」があるのではないか。 そして、愛着のあるものには、「念がこもる」ともいう。 その男性の「老天珠」が、「出涸らし」のような印象をあたえたのも、彼の「骨董品」が奇妙な雰囲気をかもしだしていたのも、もしかしたらそこに原因があるのかもしれない。 たしかにこの男性は、これらのものを「商品」としてしかみていないと思われる。(それじゃなければ、あのなかにはいれまい) しかし、もしこれらの天珠が故人と安置されて埋葬されたものだったなら、、、、 少し、ゾっとするが、チベットでは聖なるものである、という背景を考慮すると、十分ありえそうな話なのである。 もちろん、それらの品々が、だれの持ち物で、いつ、どこで、どのような運命をたどって売買されたのか、などは、もはや知る術もないのだが。 「古ければ良い」わけではないこと、すべて何かの「縁」の巡り合わせであること。人間にも天珠にも役目、そして寿命があること、、、、、。 「時代の生き証人」でもある、これらの「骨董品」を前に、畏怖の念が沸き上がると共に、何か、とても重要なことに気づき始めたように思えた。 おわり 写真上 2眼天珠と溶岩 写真下 大鵬鳥天珠と煙水晶 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
老てでたった40万円ですか?欠けているからとはいえ安すぎですよ。
老天珠は曰く付き多いですからね。 埋葬品を本当に掘り出して売っていたのかもしれません… (2017年07月14日 11時01分07秒) |