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カテゴリ:演劇
■太宰の小説のラストはこうだ。『ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」 勇者は、ひどく赤面した。』
■役者たちはその役割を果たし終えた時、たとえばこのメロスと同じように、自分の格好の恥ずかしさとか、チャック開いてるとか、パンツ見えてるとか、というような姿に、はたと気づくんでしょうね。魔物がとりついたような2時間。繰り出される言葉や、舞台の端から端まで動き回らされる様は、まるで魔法にかかってしまった男たちや女たちを見ているようでした。 ■役者をなめていたような気になる芝居です。つまり役者は特殊技術者であると見せつけられたということです。野田秀樹の芝居において、彼らはかなり過酷な技術と労働力を強いられるわけです。それと言葉を解釈するという、いくらかの頭脳とをね。どこまで役者が意味を考えてセリフを言っているのかはわからないけれど、そもそも、あれだけの量の言葉を発しなければならないというところで、生半可な作業ではないと思うわけですよ。 ■特に小西真奈美には驚きました。こういうタイプの役者さんだとは思っていなかったので。関西弁が印象的でした。深津絵里については、NODA MAP の常連ですので、これくらいはと想像できましたけどね、しかしあのかん高い声は実際の会場ではどう聞こえたんだろうか。演劇をテレビで見るということは、画面の情報がかなり恣意的に限定されてしまうところがあるので(ここを見るんだという風に)、劇場で見るのとはだいぶ印象が違うと思う。今回もそこに映っているものしか見ていないから、画面の外側で誰が何をしていたのかまではわからない。でも2階席の後ろの方で豆粒にしか見られない舞台よりはテレビの方が全然いいかも、勘太郎君の最後の「寄り目」芝居なんかテレビじゃないと、とてもわからないでしょ。 ■すごく無駄のない芝居だと思った。場面転換だって実にスマートだし、音楽の入れ方、群舞、言葉のやりとり、あらゆる面で緩急がない。急から急へという感じね。と言っても汲々しているわけではなくて、旧式でも、休止期でも、急場しのぎでもなく、救急救命病棟も出ては来ない。そう言う言葉遊びが好きな人にはたまらない芝居ですね。私たちの世代は自分の名前を逆さまから読むのがとても得意だ。私もここじゃ言えないが、すらすらと後ろから言うことができる。それと、漢字を英語にすぐ直せるとかね。たとえば高橋一幸だったら、High Bridge One Happy とかすぐ言えちゃう。 ■今の国語教育って音読が減っていませんか。英語の時間だってコーラス・リーディングが減っていませんか。声に出して読む○○なんかもてはやされているけど、案外必要なことかもしれない。世の中、声に出してみないと伝わらない事が多い。「うん」「そうね」「まあね」「うそ?」「ふつう」、そんな切り返しが増えすぎてはいないか。言葉にこだわるって事が疎んじられている。「座布団一枚」とか言われちゃう感じが異様に恥ずかしく思われちゃう所ってない?いやいやそんなことが書きたかったわけではないが、野田秀樹の作風を見ていると、もっともっと言葉を駆使するべきだなんて思えてしまうんですよ。 ■30年前の再演だそうだ。ここで描かれている「こちら側」と「向こう側」の対比が、30年たった今、両方とも「あちら側」に見えてしまうのは時代の流れだろうか。と思わせぶりな事を書いてはみたが、この世界自体をちょっともてあまし気味で、観劇後数時間では、的を得たことは私には書けない。それにしても野田秀樹と古田新太の芝居には大笑い。浜田マリは可愛かったし、ジョビジョバの六角君も懐かしかった。平助の肉体美にも驚いた、あれは副長のアドバイスがあったに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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