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カテゴリ:演劇
■小学校や中学校の頃っていわゆる「鈍い奴」に対して異常に敏感だった。遅れて笑う奴、遅れて気づく奴、遅れて流行を持ち出す奴。そういう奴の存在が鬱陶しくて、今考えると過剰に邪険にしてしまったなんていうことも思い当たらないでもない。 ■そういう奴のことを凸川(デコガワ)君と呼ぶのである。そういう鈍さの事を凸ると呼ぶドラマである。凸る、凸っているという状態を説明しようとする古田のセリフが好きだ。対象を言葉でくくろうとする時につい耳をすましてしまう時の共犯者意識みたいなものは年をとった今でもなんか甘い匂いがする。 ■凸川を殺す物語である。この忌々しさの元凶は彼にあるとばかり、寄ってたかって彼をおとしめようとする。彼がいなくなれば、心の平安がやってくるのではという想いを抱きながらね。しかし殺したはずの彼が何度も何度も生き返って彼らの前にやってくる。鈍さは痛みにも気づかない。鈍さは彼らの思惑にも気づかない。鈍さの強さと怖さが胸に迫ってくる。 ■「ねずみの三銃士」こと生瀬勝久、池田成志、古田新太の三人が主演。マスター、常連客、そして凸川。脚本は誰がどの役をやるのかを想定しながら書かれたものではないという。決定したのは演出家だという。つまりこの三人ならば、どの役でも演じられるということである。どのパートを割り振られても、それをこなせるということである。サッカーで例えれば、GKでもMFでもFWでもオーケーと言うことだ。プロの役者ということだ。 ■演劇における一回性について考える。観客はこの3時間弱の芝居を物語の筋を理解しながら見通すことができるのだろうか。その幹から派生した枝みたいな部分にばかり気を取られてしまう事に意識的でいられるのだろうか。実際、印象としてはその笑わされてしまうポイントの積み重ねが多い分、物語の方がおろそかに見えてしまう作り方をしている。 ■役者が巧ければ巧いほど、肝心なことはさりげなく彼らによって演じられてしまっている事をつい見落としてしまっている。そういう策略に満ちあふれた芝居である。気になったところを巻き戻そうにも、話はもう先に進んでいる。そんな見る側の鈍さもまた演じる方から見れば痛快なのかもしれない。 生瀬・・・常連客。幅がものすごく広い。彼が静かに語り出すと何もかもがシリアスに聞こえてしまう。 成志・・・凸川。「お父さんの恋」にも出演。二枚目とか三枚目とかっていう数え方を超越している感じ。Aでいい。 古田・・・マスター。最近彼ばっか見ているような気がする。こんなに歌が上手い人だったんだ。 女優陣は初舞台の乙葉、野波麻帆に西田尚美を加えた三人。またいっそう西田さんが好きになっちゃったんですけど。 演出、河原雅彦。そして脚本は宮藤官九郎。第49回岸田國士戯曲賞受賞作品。 ← please vote! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/05/25 09:57:41 PM
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