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カテゴリ:演劇
■教育テレビ、芸術劇場で平田オリザ作「その河をこえて、5月」を見る。日本人6人+韓国人5人による芝居、初演は日韓共催のワールドカップの年、2002年。今回は今年行われた再演の模様を放映。そういえば今年は日韓国交正常化40周年にあたるんですね。
■場面はソウル、ハンガン(漢江)の河原。韓国語学校に通う日本人5人とその学校でハングルを教えている韓国人教師とその家族が花見に集まって来るという設定である。一幕劇である。人がやってきて、出ていって、戻ってきて、集まって、そこで繰り広げられる話の内容をこちらはじっと眺めているのである。 ■思うに、観客が試されているような芝居である。この二人の関係をどう読み解くのか、この話の根本にはどんな歴史が横たわっているのか、説明を排して淡々と繰り広げられるセリフを聞きながら、お前なら何を思う?と問いつめられているような、またはいつまでそうやってじっと座っていられるのかなと挑発されているような圧迫感すら漂う。 ■平田オリザの「演劇入門」(講談社現代新書)は私にとっては付箋だらけの本である。タイトルの通り演劇を志す全ての人に向けて書かれた本であるが、それ以外にもコミュニケーション論、プレゼンテーション論、文化論として読むこともできる。興味深い内容に溢れているが、特にここで抜き出したいのは「対話」と「会話」の違いについて触れている場面である。 ■対話(dialogue)とは他人とかわす新たな情報交換を意味し、会話(conversation)とはすでに知り合っている人たちの間で行われるお喋りのことだという。たとえばこの一週間を振り返って自分が喋った言葉のうち、対話にあたる部分はどれくらいあったか考えた。職種によっては半分が対話という方もいるかもしれないが、私の場合は、そのほとんどが慣れ合いのお喋りに終始しているわけだ。 ■会話ばかりでは演劇は成り立たない。この作品、この対話と会話のバランスが抜群である。完璧に日本語と韓国語を話し分けられる人物はひとりも出てこない。それぞれが不完全な他国語によってかわされる対話の数々。日本語どうし、韓国語どうしの人たちの会話もその立場が性差であったり年齢ギャップであったり、必ず何かしらのディスコミュニケーションの要素を含んでいる。それらの会話が同じ舞台の上で、時として同時発生的にあちこちで繰り広げられる。なおかつ、迷子のお知らせを告げるアナウンスもたびたび挿入されるという念の入れようである。 ■90年代の静かな演劇の第一人者とされるこの作家の作品の割には、かなりの部分で笑いが起こる。それは内容的なものというよりはむしろ、言い間違えられたヘンな日本語ヘンな韓国語がもたらす効果である。 ■それぞれが日本人は、韓国人は、と言い出すたびに、いくらかの緊張が走る。悪口?批判?それぞれが受けて立とうと身構えるのである。タイトルの河は昔、両国の間にあったものの比喩だろう。関係は40年前とはがらっと変わっている。タブーだった相互での対話が始まっている。そしてそれは会話になりつつある。 PS 私はNHKの「しゃべり場」ウォッチャーである。数あるゲストの中でも楽しみなのは大槻ケンジとこの平田オリザ。明快に問題を斬るのである。説得力もあるのである。笑いながら怒るのである。そんな技ができるのは竹中とこの人だけである。ちなみにオリザって本名らしい。 「パッチギ!」「リンダ×3」とこれで、この夏休みの個人的日韓三部作が完成。私の韓流はこれでいい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/08/15 08:34:54 PM
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