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カテゴリ:演劇
■プロレスのリングの四方に張り巡らされたロープの事について考えてみる。たとえば自分がスタン・ハンセンと対戦する事になったとする。彼に左手をつかまれて、ロープに向かって放り投げられたとしたら、その反動でわざわざリング中央で右手を振り上げて待っている彼のところへラリアットを喰らいに戻っていくのが人としての本能かといえばそれは絶対違う気がする。
■人間の本能としてはロープにはじき飛ばされた時点で、そこにしがみついて離れないという事を選択すると思う。まるで意志のないボールみたいに敵の必殺技の渦中に身を投げようとするレスラーはやはり特別な筋書きを誰かに仕組まれた人であり、その痛みもあらかじめ予期しながら、どれだけオーバーに倒れようかと考えながら自らを相手の太い腕に向かって投げ出していくのだ。 ■プロレスが仕組まれたスポーツである事を意識したのは中学生になってからである。それまでは本気で今日の夜、馬場さんは鉄の爪フリッツ・フォン・エリックに額を割られるんじゃないだろうかとビクビクしながら家に帰った。あそこで流される血の量にしたって、試合を止めてドクターをはやくリングに上げなきゃ死んじゃうよ、なんて本気で思っていた。 ■でも、今では小学生でもあれは八百長で、血糊さえあらかじめ用意されたものだという事を知っている。仕組まれた展開の中でどこで誰がそのストーリーを逸脱していたかを発見することこそ、子供たちの楽しみ方のひとつになっているかのようにも見える。もちろんそこで流れる血を見たところで彼らにしてみれば「ベトリ」とか「ダラリ」とかいうカタカナで表された擬音付きだ。 ■主な登場人物は弱小のプロレス団体に属するひきこもりレスラー(藤原竜也)とその相棒(橋本じゅん)、それを中継するディレクター(野田秀樹)とその妻(渡辺えりこ)とAD(三宅弘城)、そしてリングの下に住み着いたコロボックルの娘(宮沢りえ)。ちなみに、コロボックルとはアイヌ伝説に登場する倭人のこと。 ■考えさせられるのは、メディアの存在についてで、「あった事を無かった事にしてしまう話」と「無かった事をあった事のように伝える話」が戦地を伝える報道番組の胡散臭さとプロレスという予定調和的世界を並列に描く事によって問題提起をしているように見える。 ■宮沢りえが実況の名人であるという設定も効果的。かつて古館伊知郎がアントニオ猪木の試合を過剰にロマンティックに語って広げていった世界をなぞるかのように、彼女が朗々と語るバトルの世界がリング上から逸脱してソンミ村虐殺事件に及んでいった時、あったはずのリングもロープも全てないがしろになってしまい、虚構と現実の狭間がきわめて曖昧になってしまう。かつてそれはリングの上だけで許されていた行為だったはずなのに。 ■ステージに備えられたリングには、なぜかあらかじめ傾斜がついており、高い側から低い側に向かって選手たちは転がっていくように見える。それが最初から平等で均等ではないのはやはり何かしらの意味があるような気がする。 ■「OIL」にも感じた色々な言葉がリンクしていく感じや、役者の身体がいつまでも怯まない感じや、色々な意味や無意味が散り散りに放り投げられている感じはまさに野田演劇を見る喜びである。それにしてもあれだけの膨大な量のセリフをこなした宮沢りえに拍手。彼女と藤原君の美しさに見とれてしまい、時を忘れた2時間だった。 PS ■そうか、Alone Again(Naturally)は元祖ひきこもりの歌だったんだ。なるほどね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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