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カテゴリ:演劇
■「Les Confidants」 に「絆」という副題はピッタリはまったと思うが、この舞台を見て「ふぞろいの画家たち」という副副題を思いついたわたしもたいしたものだと思う。中井、時任、柳沢、国広という四人の若者が仲手川の部屋に集まり悶々と過ごしたあの青い時代を19世紀のパリのアトリエにそっくり移動して語られた青春群像でもある。
■絵の世界に疎いわたしでもゴッホとゴーギャンの名前だけは知っていた。この芝居ではそのふたりにスーラという点描画家とシュフネッケルという美術教師を加えた四人が、毎晩のようにアトリエに集まり、モデルの女性の肖像画を描いていく話だ。 ■同じモデルを見て描かれた絵なのに、ひとりひとりその作風はまったく異なる。構図に凝る。見たものをそのままに写実的に描く。内面を象徴的に描く。光と影に焦点を当てる。その人物がどんな性格であるかを伝える為に劇作家はセリフや顔つきでまずそれを表現するわけだが、その人の描いた絵がそれらよりもはるかに有効な人物描写になってしまうこともありえるわけだ。 ■スーラの中井貴一、ゴーギャンの寺脇康文、それぞれ適役だと思ったが、素晴らしいのは生瀬勝久のゴッホと相島一之のシュフネッケル。炎の人というイメージから大柄で粗暴で「道」のザンパーノみたいな印象をゴッホに対して持っていたのだが、三谷版の彼は気が弱く、甘えん坊で、ネガティブ指向の芸術家。一方のシュフネッケルは美術史的にはまったく無名の人物ながら、三人の成功を陰で支えた立役者だった。自分の才能の無さを天才たちに指摘され咆哮する終盤の見せ場は「12人の優しい日本人」の彼を彷彿とさせられた。 ■舞台袖にはピアノが置かれ、音楽担当の荻野清子さんが効果的に随所にアクセントをつける。時にはサティのように、時にはラベルのように。この演出はすごくお洒落だと思った。冒頭とラストでは堀内敬子がそのピアノにもたれながら、わざと嗄れた声でテーマを歌う。まるで女トムウェイツのようだった。 ■休日の午後のWowow指定席で鑑賞したわけだが、最初、なぜ客席から笑い声が聞こえてこないのか不思議だった。いつもの三谷芝居に比べ、比較的コメディ指数は押さえ気味であるとはいえ、全然反応がないのはおかしい。あとで流れた三谷自身のインタビューによれば、今回の放送は、この放映の為だけにPARCO劇場を借り切って、観客を入れず撮影された舞台だったという。 ■観客あっての芝居、客席の反応あっての演劇。そんな常識を打ち破って見せた今回の放映。そこで見えたものは芝居でもなく、テレビドラマでもなく、映画でもない、何か不思議な空間だった。役者にとってはすごく難しい芝居だったのではないかと想像する。彼らは何を指標に演技を続けることができたのか。そこにはどんなモチベーションやテンションがあったのか。そこで試されたのは五人の役者の絆だったのではないか。なんて見え透いた感想を書くわたしもどうかと思う。 ■従来の三谷作品になかったような様々な試みが見えた意欲作。外国劇でも、史実でも、この作家の柔軟性はクオリティを落とすことなくクリアしてしまう。もしもこの作品が今年の演劇界の成果としてとらえられないとしたならば、そこにはこの作家の才能に対する、いくらかの嫉妬とか思惑が含まれているのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/11/23 10:21:31 PM
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