|
テーマ:DVD映画鑑賞(14212)
カテゴリ:映画
■例えば自分が職業脚本家であったなら、自身の溺愛する小説なりマンガを映画のシナリオに置き換えていく作業というものは至福の喜びなのか、それとも身を削るような苦行なのか。渡辺あやの心中を想像するに、その葛藤たるや生半可なものではなかったろうと思う。
■原作に対する愛情が大きければ大きいほど、脚色するなにものもなく、ただオリジナルの断片をどれだけ効果的に積み重ねていけるかかどうかが、くらもちふさこに対するリスペクトに重なるというわけだ。どこを切って、どこを残し、どのように物語を繋げていくか。その成果がこの2時間の映像空間だった。 ■そして、その脚本を渡された映画監督にとっては、その場面をどのように撮り、登場人物をどのように映し、場面と場面の間の抑揚をどのように描き出すのかというセンスが問われるわけだ。山下敦弘の描く世界はカメラが人間の目になったかと思えば、耳にもなり、結局は心と同化する。言いかえれば頭(説明)を極力排した見たまま感じたままの感覚的世界がそこに描き出されるということだ。 ■前半、子供たちの会話の中でセリフが聞き取れない箇所が多数ある。しかし当人たちにとっては(そして物語的にも)すごく大事なそれを殊更聞かせようとする為にマイクがその声を拾いだそうとすることはない。聞き耳を立てようとしても届かないところにいることの方が人生では圧倒的に多いからだ。 ■たとえば耳を塞いで、全編一切の音を抜きにしてこの映画を観てみる。例えば目を瞑って、全編一切の映像を抜きにして彼らの会話と自然音と音楽だけを聞いてみる。それでもこの映画が成立してしまうような気になってしまうのは抽出されたエピソードの連続があまりにも自然に流れているように見えるからだ。 ■暗転の微妙な長さはわたしたちの瞬きよりもはるかに長くて、人によっては眠気を誘われるのだろうが、わたしはこの数秒がすごく心地良いと思う。それは余韻を噛みしめるのに適当な長さで、途切れたシーンで語られなかった部分を想像するための余白となる。この監督の”間”の取り方は北野武の映画に相通じるものがあると思う。 ■夏帆が岡田君に言った「チューしていいよ」の邪心も性欲も感じられない一言が罪だ。終盤、彼女の方から彼のクチビルに何度も触れ、「それ愛がない」って言われてしょげるシーンがすごく好きだ。それでもそんな男の子と女の子のキスシーンよりも、彼女が黒板に唇を寄せたラストシーンの方が遙かに色っぽく見えたのは充分作為的な演出による。 ■何の事件も起こらないくせに、好きなシーンは数えられないくらい多い。海で泳ぐことそのものよりもそこに行くまでの道が好き。修学旅行で東京に行っても、ひとりになれた瞬間が好き。テレビを見ていてもついついうたた寝をしてしまう時間が好き。退屈極まりない田舎でも彼女のそばにいれるから好き。いつまでもそこにいられないとわかっているから、少しでも長くそこにいたいと思う。くるりが流れるまでの踏ん切りの悪さはきっとそんなわだかまりのせいだったんだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[映画] カテゴリの最新記事
|
|