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テーマ:大河ドラマ『篤姫』(422)
カテゴリ:篤姫
■スタスタスタと滝山があの鉄面皮で歩いてくる。いつも悲しい知らせはこの女が伝えにくる。「身罷られました」、この最高敬語がどういう意味であるか、このドラマに出演する以前の宮崎あおいは知っていただろうか。しかし、この短い期間に最愛の人をふたりもなくしたヒロインはこの言葉を生涯忘れることはないと思う。
■彼の父親なら「なんじゃい こりゃぁ」と叫んでいただろう。わたしはこんな所でこんな事している場合ではないのに。一時も早く、長州などというはねかえりを鎮圧し、大事な人が待つ江戸に西陣織など持って帰らねばならないのに。こんなに早く、この世から退場してしまうことなんか、決して本意ではない。「わしは何事かをなし得たと言えるだろうか 将軍として 男として」勝海舟に抱かれた松田翔太の最期は儚くてそして悲しすぎる。 ■享年21才。仮に自分がその年齢で国の最高責任者になったと考えたら、途方に暮れてしまうだろう。たとえ自分の周りには立派なオトナがたくさんいてくれていたとしても、そのオトナたちだって経験したことの無いような波瀾万丈な時代の流れの中で、最後には自分がYESかNOかを言わなければ事は運んでいかないのだ。これは相当キツイ。できることなら、100年前に生まれていればよかったのに。この巡り合わせは将軍という名の名誉の代償としては重すぎるものだった。 ■今回この「将軍の死」がことさら悲しみを誘ったのは、その前段で繰り広げられた日本最初の新婚旅行の顛末を描いたほのぼのとした明るさとの落差のせいだ。ハピネス三茶以来の顔合わせとなったともさかりえと市川実日子による旦那様談義の帰結点は(たとえ自分の目が届かぬ所で女の影が忍び寄ろうとも)愛している相手が「生きてさえいてくれれば」幸せなんだというものだった。そんなふたりのちょっと拗ねたような微笑の後に大奥にあの報せが入るという展開が効いている。 ■女性たちにとって、国の未来は家族の未来とイコールだった。国の制度は家族の制度とイコールだった。よってこの先、わたしたちの未来は、わたしたちの家族はどうなってしまうのかという不安はこの時点でピークを迎える。 ■徳川幕府を陰で支えてきたのが大奥ならば、わたしたちの代でそれを滅ぼすことは絶対あってはならない。この時、彼女たちはこの時代が後に幕末と呼ばれることになることを誰も知らない。その時、彼女たちは自分たちにとって大切なものや人のことを守り続けていこうと必死だった。それらがみんななくなってしまうなんてことは絶対考えたくなんかなかったはすだ。だけど彼女たちにできることは一日中神や仏に祈ることしかなかったのだった。 PS ■お龍とお近、お近と小松帯刀、小松帯刀と坂本龍馬、天璋院と和宮、そして勝海舟と徳川家茂。それぞれのシーンのセリフの巧さを堪能した回。特に女性たちの男を思う言葉のやりとりにはこれが大河ドラマであることを一瞬忘れさせるような現代劇に通じる普遍性を感じる。松田翔太の家茂は先代将軍家定の名演に勝るとも劣らぬ好演。DNAの偉大さを思い知る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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