そうそう、何時か書いておこうと思って忘れていたことがありました。暇人が一生懸命自分の言い分を主張しているのを観て思い出しました。ラッキーが人に講釈する時に基本にしていることがあります。それは、信じて貰わなくていい、批判されても良いと言う思いです。どう言うことかと言うと、例えば地球は丸いんだと言うのは現在の人は疑わないでしょう。別に自分の目でその丸さを現実に確かめた訳でもないけど。携帯電話は線が繋がって居ないけど人と話しが出来るんだと言うことを疑う人も居ないでしょう。なぜかと言うと科学的根拠がはっきりしていると認識しているからです。認識と言っても、その認識を理論的に説明できるかと言うと出来ないと言う矛盾をやってのけているのが普通の人です。
それと同じ様に、真理は誰が疑おうと、批判されようと崩れ去ることは無いのが真理ですから、信じて貰わなくても一向に構わないんです。疑うことを厳しく禁じて居たり、批判されることを避けて居る団体などがあるとしたら、それは偽物です。例えば、オーム教と言う団体がありましたが、今も、あるのかな?この団体などは、疑うことを厳しく禁じていて、疑う者には厳罰を持って対応し脅して留めると言う手段を使って居たでしょう。それは真実ではないことを教えているからなんです。
お釈迦様の話しを集めた仏典と言うものを疑う人も少ないでしょう。聖書に書かれていることを、声を大にして否定する人も少ないでしょう。だから仏典や聖書に書いてあったと言えば、相手は、取り敢えずは黙ります。でも、同じ言葉でもラッキーの言葉だと言うと疑う人は山ほど居ます。この程度なんです世の中って、反対に結構有名な作家が言っている話しをラッキーに問う人も居ます、どうなんでしょうってね。
例えば、ラッキーが言っている話しを仏典に照らして検証する人が居たとしたらその人はラッキーを疑わなく成るでしょう。なぜって仏典に書かれている真理や法則そのものだとラッキー自信が以前に検証した結果を話しているからなんです。だからと言うことでは無いんですが、疑う人に信じて貰う必要はない、否定して貰って結構なんです。真理は変わることは無く、そのことに気がつかないその人を否定する気も無く相手にする気も無いからです。出来る事ならば、間違っていると言う証拠を観たい位で、ゆるぎなく堂々としていられるんです。
ラッキーの講釈を信じてくれている人に言って置きます。知り得た知識を人に主張すると、自分で苦を作り出す結果に成りますよと。まずは、自分だけの宝もので温めている内にその知識から知恵が湧き出て来て、穏やかな幸せな世界がやって来ます。そしたら、周りの人達が、アリが砂糖に群がるが如しに集まり始め、そこから又、面倒が生れて来ます。そしたらぼちぼち話してあげたら良いんです。・・・それがこの世なんです。だから信じて貰わなくていいんです。
あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v
【ラッキーの一言】自分で自分を否定して他人に憧れて居る暇人が居ますが時代が複雑な人を作り出すんだね。特にマスコミが・・・
ラッキーでした(^O^)/
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