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箱庭

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鳥海摩耶

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非常口

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2012.10.17
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カテゴリ:HoI2AAR
 9月13日、共和派がフランスに降伏。1年余に及んだスペイン内戦は当事者であった共和派でも国粋派でもなく、独仏同盟という第三者の直接介入によって決着がついたのである。ところが、スペインを巡る紛争が終わったわけではなかった。独仏政府は共和派の降伏受諾を明らかにしたのと同時に、スペイン国粋派に対し宣戦を布告した。

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 フランコは独仏同盟が提示したカードを読み違えていた。そこにあるのは対等な同盟締結ではなく、強制的な同盟締結。それ以外の選択肢は存在しなかったのだ。フランコは自ら指揮する軍団を引き連れラコルニャに立てこもったが、数時間の戦闘の末降伏、フランコは捕虜となった。

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 ここに、独仏同盟のスペイン遠征が終了した。スペイン全土は一時的にフランスの統治下に置かれたが、やがてペタンの復興指導の下再独立する。しかし、その独立方法は世界各国の外交関係者を再び驚かす事になる。
 まず、国家元首にフランコを再起用。これには2つの理由があった。1つは、保守派からの信頼の篤い人材がフランコ以外にいなかった事。そしてもう1つが敗者にも寛容な姿を見せつけ、スペインの叛旗の種を摘み取る事である。
 次いで、独仏政府は当初1週間程統治委員会を設置して実質的な属国としてスペインを扱っていたが、すぐに引き上げさせた。これにもいくつか理由があったが、後年の歴史家が有力視しているものは、1つがスペイン国土の復興をスペイン自身が行う事、そして独仏ともにどちらかと言えば資源輸入国であり、資源の少ないスペインを属国化してもメリットが少なかったためとされている。しかし、この併合後再独立、属国支配撤廃のスタンスは予想に反して独仏同盟の、特にフランスの常套手段となって行く。
 この間、独仏同盟は国際的な非難に晒されたが、直接的な手段に訴えようという国家はついに現れなかった。米ソは日和見、当事者となる可能性の高い英国も準備不足でとてもではないが戦争という手段を取れなかった。これ以降、欧州の主導権は完全に独仏同盟が握って行く事になるのである。



 1938年3月、ヒトラーは以前から進めていたアンシュルス、すなわちオーストリア併合を実行した。
 これはフランスも公然と支援した。フランスはかつてジュネーブ体制下においてドイツとオーストリアの合併を強硬に反対したのだが、「20年前にドイツ系オーストリアのドイツへの合併を認めなかったのは民族自決の原則に反した歴史的な過ちであった」と主張してオーストリアを突き放した。
 一方で、この頃からフランス国内においてドイツの拡張を懸念する声が生まれ始めていた。ドイツがいつか裏切り、フランスに牙を剥くのではないかという不安が再来したのである。ペタンはこの意見に耳を傾けなければならなかった。
 ドイツとの同盟締結時、かなりの量のドイツ国内情勢の情報が流れ込んだが、その情報からドイツ軍の再建途上の現状、経済状況の逼迫といったものが少なくなく、ドイツに対し同盟国として失望感を抱く者まで現れる始末であった。
 だが、フランスとの同盟締結によって最も得したのは誰あろうドイツである。隣国フランスが同盟国となった事で、軍事力に向けられるはずだった国力がある程度国内工業力の質の向上に向けられた。また、フランス企業の優秀な工作機械がドイツに輸出され、見返りとしてフランスで不足していた石炭等の資源がドイツからもたらされた。同盟締結後2年で、両国は相互依存をかなり深化させていたのである。ここでドイツの裏切りに会えば、フランスとしては大変困るどころか対処しようがない。
 そして、皮肉な事にドイツ国内でもフランスに対する懸念が先鋭化し始めていた。フランスの工作機械や人材が入る度に、フランスの国家としての力をドイツが恐れるようになっていたためである。このすれ違いは、1938年の両国の行動によっても見る事ができる。
 まず事を起こしたのはフランスであった。5月16日未明、フランス軍は国境を越え、突如としてルクセンブルク領内に侵攻したのである。

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 独仏両国はルクセンブルクを含むベネルクス3国の扱いに対し再々協議を開いていたが、前大戦の経過から「しばらく放置」という結論を出していた。しかし、ルクセンブルクは海外領土を持たず、すぐに併合できる、と踏んだフランス政府は、ルクセンブルクに侵攻した。イギリス等と戦争状態に陥った場合、ベネルクス3国を拠点として反攻作戦を展開するのではないか。その懸念をフランス軍部が抱き、ラヴァルを通じてペタンを説得させたのである。
 ドイツ政府の了承を得たものではなかったが、ルクセンブルクは元々ドイツ語圏であり、領土要求を非公式に繰り返していた事もあって事後承諾でも充分と判断したのである。フランス軍は24時間以内にルクセンブルク市街に突入、首相官邸等を制圧した、いやしようとした。しかし、驚くべき事にドイツ政府は翌17日にルクセンブルクに対し和平を提案したのである。

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 これにはペタンもラヴァルも意表を突かれた。ヒトラーはこの決断に際し声明を出した。

アドルフ・ヒトラー.jpg ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラー
「我らが独仏同盟は欧州の枢軸として秩序を守らなければならない立場にある。武力による国際問題の解決は慎まなければならない」

 明らかにアンシュルスを無視した言動であり、フランス政府は激怒したが、実際に問題が拡大しかねない事から渋々引き下がらなければならなかった。これが後世に言う「ルクセンブルク事件」の顛末である。
 独仏同盟を中心とする枢軸同盟では、独仏だけでなく独立したアフリカ諸国もスペインすらも対等の立場を得ていると公表されていた。しかし、実際には(ゲームシステム上の問題もあって)ドイツが盟主として振舞っている。これがフランスの不満を産んだ。
 一方で、ドイツも領土的野心を失っていたわけではなかった。むしろその版図を広げんと躍起だった。ヒトラーが次に欲していたのはドイツ系住民の多いチェコのズデーテンランド、引いてはチェコスロバキア全土であった。チェコはかつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国領時代から工業化の進んだ地域であり、その高い工業技術力には定評があった。ヒトラーはその力を得て、ドイツの工業基盤をより強化しようとしたのである。しかし、ルクセンブルク事件で頭に血が上っていたフランスはこの強硬路線を公然と批判した。

ヘンリ・フィリップ・ペタン.jpg
「チェコをドイツが手にしようとするのであれば、フランスとしても何らかの手段に出なければならない」

 フランスもドイツも新体制がようやく軌道に乗り始めていた事も災いし(強硬路線で国民の支持を得る必要があった)、ここに独仏同盟崩壊の危機が訪れたのである。ドイツがズデーテン地方でドイツ人が迫害されているとのプロパガンダを強化すると、フランスは続け様にドイツの了解なしにチェコとの相互援助条約締結の交渉を始めた。
 批判合戦の度合いを強めた不毛な争いは、フランス首相ピエール・ラヴァルの英断により急速にしぼんで行く。それは、ルクセンブルク事件を水に流す代わりに、チェコを枢軸同盟に加えるという外交取引であった。粘り強い交渉の末独仏両国は合意に達し、ミュンヘンにおいて開かれた枢軸国首脳会談においてチェコの枢軸同盟参加が認められた。

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 一度は崩壊の危機に陥った枢軸同盟ではあったが、「雨降って地固まる」の故事そのままに、今度は急速に連携を高めて行く事になるのである。また、チェコは優秀な陸軍国であり、経済発展に重きを置いていたフランスを凌ぐ戦力を持っていた事が明らかになる。

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 ペタンや軍首脳陣は溜息を隠せなかった。



 1939年になると、ヨーロッパにおける緊張はさらに高まる。チェコの枢軸同盟参加によりヨーロッパ大陸の大半が枢軸同盟国によって占められる事になり、これに危機感を覚えたイギリスがソ連との協調をも模索するなどヨーロッパ情勢は不安定になり始めた。3月24日、ドイツがメーメルをリトアニアから割譲されると、バルト三国を自国の勢力圏と思っていたソ連と枢軸同盟との関係が悪化。連合国と共産国の協調がにわかに現実味を帯びて来ると、ドイツを中心に枢軸同盟各国がこの協調関係を切り崩しにかかった。
 ドイツはベルサイユ体制下で秘密裏にソ連と軍事面で協力していたという事実に加え、ドイツ軍内部にも親ソ派が少なくなかった事、さらには将来の対英戦における後背の憂いを断つためにも、一時的にせよ枢軸同盟と共産国の協調が必要であると考えたのである。これに賛同したペタン、フランコらの支援もあって、独ソの交渉は非公式ながら円滑に進んだ。その結果は、8月24日のモロトフ=リッベントロップ協定となって結実する。
 独ソの狭間に置かれたポーランドは、早くから連合国、共産国、果ては枢軸同盟との協調も模索したが、結局どれもうまく運ばなかった。ポーランドがイギリスと相互援助条約を結ぶのは、ドイツ軍が国内に深く食い込んだ後の話である。
 枢軸同盟は、モロトフ=リッベントロップ会談の成功を見てドイツがポーランドとの戦端を開く事を了承。この際イギリス参戦の可否が論議されたが、結局参戦して来るだろうとの見通しで合意した。結果、ドイツがポーランドを侵攻している間に、フランスがイギリス軍を無力化するという以前から立てられていた作戦案が軍部に伝達され、ここに第二次世界大戦の火種が出揃う事になる。


続く。

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最終更新日  2012.10.17 11:02:05
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