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鳥海摩耶

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2012.11.05
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カテゴリ:HoI2AAR
1942年12月31日 ワシントンD.C. ホワイトハウス

ダグラス・マッカーサー.jpg アメリカ合衆国統合参謀本部議長 ダグラス・マッカーサー
「・・・以上が、明日から開始される日本本土上陸作戦の詳細である」

 アメリカ陸海軍は統合参謀本部を設立した。陸海軍の指揮を一本化する狙いがあったが、陸海軍の意見が一部対立し、大統領の最高軍事顧問として収まった。初代議長には陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサーが就任し、陸軍参謀総長にはジョージ・C・マーシャルが任命された。

フランクリン・D・ルーズベルト.JPG
「立案ご苦労様でした。今日は休んで下さい」

ダグラス・マッカーサー.jpg
「あいよ」

ジョージ・C・マーシャル.jpg アメリカ合衆国陸軍参謀総長 ジョージ・C・マーシャル
「大統領、少しお話したいことがございます」

フランクリン・D・ルーズベルト.JPG
「何でしょうか?」

ジョージ・C・マーシャル.jpg
「日本本土上陸の後に関して、です」

フランクリン・D・ルーズベルト.JPG
「・・・なるほど、中国大陸ですか」

ジョージ・C・マーシャル.jpg
「その通りです。情報部の報告によると、中華民国はすでに300個師団を動員しています。技術力の差、今後の我軍の動員を考えれば、押し潰すことは可能であると考えます。しかし・・・」

フランクリン・D・ルーズベルト.JPG
「時間と犠牲がかかり過ぎる、と」

ジョージ・C・マーシャル.jpg
「はい。中国はインフラが整っておりませんし、奥地に入れば山岳地帯が続きます。大兵力同士の衝突となれば、犠牲は避けられません」

フランクリン・D・ルーズベルト.JPG
「確かに、何らかの手を打った方がよさそうですね。何もない中国大陸を取ったところで我国に得られるものはないですし。・・・そうですね、ドノヴァン少将を呼んでもらえますか。お話したいことができたと伝えて下さい」



 1943年が明け、ダウンフォール作戦と名づけられた日本本土上陸作戦は開始された。第1段階として、硫黄島の攻略を開始した。これまでの太平洋島嶼への上陸作戦の戦訓を踏まえ、硫黄島には徹底した空爆と艦砲射撃が実施された。硫黄島の航空戦力は一夜にして壊滅状態となり、日本海軍は大小空母8隻、戦艦7隻を中心とした艦隊を繰り出した。なけなしの主力艦をほぼ全力投入した結果、必然的にアメリカ海軍の上陸支援部隊との艦隊決戦が発生した。

 この海戦は1月2日から数日間に渡って繰り広げられる長い海戦となったが、当初どちらの攻撃も決定打になり得ず、日本海軍は軽空母「龍驤」及び重巡「鳥海」を失ったのみであった。翌日の第2海戦では、日本本土近海にまで進出していた潜水艦隊の雷撃とアメリカ艦隊の追撃が重なり、南雲機動部隊の指揮・統制が混乱。結果、空母「翔鶴」及び戦艦「榛名」、重巡「阿蘇」を失った日本海軍はついに撤退を決意した。

ss1215.jpg

ss1216.jpg

 日本本土の目の前で艦隊決戦に敗北した事実は、日本海軍を打ちのめした。この海戦以降も何度か艦隊決戦が生起したが、日本海軍は少しずつ少しずつ戦力を削られ、やがて戦力を補充できなくなって行った。

 1月12日、硫黄島に海兵隊が上陸。守備隊との間で戦闘が勃発した。結果、補給を絶たれ、艦砲射撃と空襲に悩まされた硫黄島守備隊はわずかな間に指揮・統制が崩壊、海兵隊は分散した彼らを各個撃破して行き、硫黄島は5時間で陥落、摺鉢山には星条旗が掲げられた。硫黄島では海兵隊が制圧したその日から重機が搬入されて飛行場の補修工事が始まり、3日後にはマリアナ諸島から陸軍航空隊が一番乗りで進出している。

 九州・パラオ海嶺海戦後、統合参謀本部の設立を機にアメリカ海軍太平洋艦隊は艦隊の再編成を行い、任務部隊の上位組織として第3艦隊、第5艦隊を創設、運用した。第3艦隊の司令官にはウィリアム・ハルゼー中将が就任、第5艦隊の司令官にはレイモンド・A・スプルーアンスが中将に昇進するとともに就任した。

 第3艦隊には実戦配備間もない新鋭空母「エセックス」及び「イントレピッド」が加わった第16任務部隊を再編した第38任務部隊、及びリー少将指揮下の第64任務部隊と比較的新しい艦が配された。第5艦隊には「ヨークタウン」を失い九州・パラオ海嶺海戦の傷から癒えたばかりの第17任務部隊を再編した第58任務部隊、第1次大戦前後に就役した旧式戦艦を集中運用する第61任務部隊が組み入れられている。

 硫黄島上陸作戦、小笠原諸島沖海戦には両艦隊が参加したのは、合わせて空母11隻、戦艦16隻、重巡6隻、軽巡12隻、駆逐艦52隻、以下タンカーや工作艦など多数の補助艦艇を従える大艦隊であった。傷を負った艦は順次マリアナ諸島へと下がって補修を受けたが、残存艦艇は日本本土近海にまで進出した。

 これまでの上陸作戦と同様に空襲と艦砲射撃に晒されたのは青森県三沢市だった。三沢市には海軍航空隊の基地が存在し、その後の日本本土における戦いで航空支援を提供する基地として使用する目的であった。日本陸海軍はアメリカ軍の上陸地点を九十九里浜、あるいは九州と踏んでいた。この推測から防衛計画を立て、関東以西の防衛力強化を推進していた日本陸海軍は三沢への上陸に対応しきれなかった。

 現地には守備隊もいたが、空襲と艦砲射撃に晒されながらも30時間余りに渡って抵抗した後、南へと敗走した。

ss1218.jpg

 アメリカ陸海軍は三沢市に橋頭堡を確保した海兵隊6個師団の後を追う形で海兵隊、機甲師団、山岳兵師団を揚陸させた。後にも続々と歩兵師団が揚陸され、最終的には100万のアメリカ兵が日本本土に上陸した。日本本土は真冬だったが、アメリカ陸海軍はそれを見越して防寒装備を充実させており、地の利で勝る日本側の守備隊を慎重に南へ南へと押しやって行った。体力を蓄えていた日本陸軍の必死の抵抗、アメリカ陸海軍の慎重な用兵により戦線の推移は緩やかだったものの、翌月には東京市街が視認できる位置にまで(アメリカ側から見て)前進した。

 2月17日明朝、東京侵攻部隊が総攻撃を開始。徹底した航空支援が行われ、東京市街北方に展開した第11、12方面軍はアメリカ陸軍機甲師団の突破力の前に押し切られた。その後も散発的な抵抗はあったものの、2月18日には市街の8割以上がアメリカ陸軍に制圧された。

 皇室関係者とともに京都に移った日本政府は徹底抗戦を叫び、第11、12方面軍に時間を稼がせつつ東海地方の防衛を受け持つ第13方面軍に濃尾平野での陣地設営を急がせた。アメリカ軍は徐々に戦線を西へと推し進めたが、日本本土上陸後初めて防御陣地の整った第13方面軍と第11、12方面軍の残存兵による猛反撃に遭った。ジョージ・S・パットン中将の第2機甲軍団の暴走とも取れる突撃をも凌いだ日本陸軍に対し、日本本土上陸部隊の総司令官であったオマール・N・ブラッドレーはそれ以上の進撃を諦め、戦線を膠着させる決定を下した。

 その一方で、ブラッドレーは海軍にかけ合い、北海道上陸後、手の空いていた艦隊を近畿で抵抗を続ける日本陸軍の背後に回し、海兵隊を揚陸させるよう提案した。日本本土における戦いの長期化を嫌ったニミッツらの支持もあり、海兵隊は再び揚陸艦に乗り込んだ。

 揚陸艦の護衛に当たったのは第3艦隊で、充実した支援の下4個海兵軍団が鹿児島県の大隅、薩摩両半島に上陸したのは3月14日のことであった。九州を守る第16方面軍は装備と機械化率で劣り、攻勢の勢いも駆って九州一帯を勢力圏下に置いた。更に中国地方にも攻め入り、日本海軍最大の根拠地である呉、三菱重工業や川崎重工業の大規模な造船所のある神戸をも占領した。

 わずかに生き残っていた日本海軍の主力は、最後の艦隊決戦をアメリカ海軍に挑んだ。指揮を執ったのは強く志願した南雲忠一中将で、戦艦「武蔵」「大和」「金剛」「山城」「扶桑」、空母「赤城」「隼鷹」「飛鷹」を中核戦力とした久々のGFの全力出撃だったが、戦艦の一部は損傷を負ったまま、空母の艦載機は定数を大幅に割り込んでいるという有様であり、開戦時には艦船380隻余り、航空機3000機以上を保有していた日本海軍の成れの果てという言葉が相応しい艦隊であった。

 南雲部隊の出撃は第3艦隊に察知され、ハルゼーは全力攻撃を命じた。潮岬沖で捕捉された南雲部隊は反撃する間もなく第3艦隊の艦載機及び三沢、鹿屋両航空基地から飛び立った航空隊に袋叩きにされ、航空攻撃により空母の全て、戦艦「金剛」「山城」「扶桑」を失い、「大和」「武蔵」も傷を負った。


続く。

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最終更新日  2012.11.05 11:46:45
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