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箱庭

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鳥海摩耶

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非常口

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2012.11.09
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カテゴリ:HoI2AAR
 1943年6月16日、ボルネオ島はイスラム教圏(元イギリス植民地)及びキリスト教圏(元オランダ植民地)の統一国家サラワクとして独立。連合国に衝撃を与えた。英仏そしてボルネオ島の大半の権益を握っていたオランダは当然、猛烈に抗議したものの、ルーズベルトの読み通りスポンサーに対しては強く出られず、涙を飲むしかなかった。

 更には同年7月6日には朝鮮、9月14日には併合された満洲国とかつて大日本帝国の領土であった土地を独立させ、戦力圏に加えた。一連の独立事業はアメリカの反海外領土主義の立場を明確なものとし、連合国は危機感を抱きつつもこの「慈善事業」を苦々しく見守るしかなかった。

 独立した国家群はドル・ペッグ制を採用した。すなわち、それぞれの通貨の価値をアメリカ・ドルに連動させるという制度を成立させたのだった。加えて、開発にはアメリカ資本が大量に流れ込み、経済的な結びつきが強化された。

 このため、独立した国家は経済的にアメリカへの依存を強めざるを得なくなり、その状態は「経済的植民地」と呼べるものであった。「政治的には独立していても、実際には自給できない資源はアメリカからの輸入に頼り、自給できたとしてもアメリカに持って行かれて再分配され、最終的にはアメリカの懐が潤う」という批判が起こったほどである。実際には独立を果たした国家同士での貿易量も年々増加するのであるが、それはまた先の話であった。

 アジアでの戦闘は、海兵隊だけではなく北京付近にて膠着した戦線から機甲軍団、機械化歩兵軍団、山岳兵軍団が引き抜かれ、東南アジア攻略に投入された。機甲戦力は密林の多い東南アジアにおいては運用に多大な苦労を生じたが、戦闘における絶大な火力と特殊な訓練を積んだ山岳兵軍団の活躍もあって攻略作戦は順調に進んだ。

 10月6日にはインドネシアが独立。オランダ東インド会社による覇権の確立に伴う植民地の歴史が終りを告げた。10月26日にはマレーシアが独立。1800年前後よりこの地を統治していたイギリス人も大日本帝国によって放り込まれた収容所から救い出されたが、彼らには以前の覇権はなく、マレーシアの国民として生きるかイギリス本国に帰るかの選択肢だけが与えられ、やがて隣国のインドネシアと同様に親米派が有力な派閥を形成して行く。

 11月12日、国内で激しい戦闘が行われていたシャム(タイ王国)がアメリカ合衆国、連合国各国と和平を結び、事実上降伏した。この時タイ国内に進駐するかどうかでアメリカ政府内で意見が分かれ、最終的には軍事同盟及び米泰地位協定の締結でタイ政府はアメリカ軍の同国内の軍事施設の使用を認めることで決着する。

 タイを巡る政治的ないざこざの結果1ヶ月ほどタイムスケジュールが遅れたが、アメリカ陸海軍は侵攻作戦を再開。マレー半島を足がかりに、大日本帝国の勢力圏内に収まっていたビルマ、インド、及びインドシナ半島を奪還する作戦が始まる。大日本帝国は太平洋の東側でこそ苦戦していたが、中国大陸以西では連合国の抵抗が微弱であったために連戦連勝であったのだ。だがそれも、一時の栄光でしかなかったことを彼らは思い知るのである。

 アメリカ軍の進軍は内陸の機甲師団の突破力、及び沿岸部への海兵隊の強襲上陸の2段構えで進められ、打つ手打つ手が尽くアメリカ軍有利に動いた。12月30日にビルマ最大の都市ラングーン(現ヤンゴン)に海兵隊が上陸したのを皮切りに、年明けの1944年1月6日にはチッタゴン、ダナン以南のインドシナ半島南部全域を制圧。

 この情勢を背景に大日本帝国の南京亡命政府では倒閣の動きが起こり、首相の東條英機が失脚。変わって枢密院議長を務めていた鈴木貫太郎海軍大将が重臣会議によって首相に選出された。鈴木は南京亡命政府を大日本帝国の正当な政府として生き残らせるためアメリカ政府との和平交渉を独自に進めていた東京暫定政府との連絡を取った。断絶状態にあった両者は南京亡命政府の歩み寄りによって距離を縮めたが、東京暫定政府は南京亡命政府が要請という形で東京暫定政府の政務に口出しするのを無視。しかしそれを南京亡命政府が確かめる術はなく、東京暫定政府が事実上大日本帝国の統治者であると認めざるを得ない状態だった。

 そんな「2つの政府」の鞘当を尻目に、アメリカ陸軍の機甲軍団が3月6日にパキスタンのカラチに到達し、インド亜大陸を東西に打通した。残敵掃討もすぐに収束し、インドは大日本帝国の統治下から外れることになった。

 3月中にはベトナム及びラオスが独立。そして翌月、再び大きな衝撃が大日本帝国を襲う。それが、中華民国におけるクーデター、及び汪兆銘の失脚であった。

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 ルーズベルトは広大な山地とインフラ、治安の悪さを誇る中国における戦闘及び統治をできる限り避けたいと考えていた。そこで、ウィリアム・J・ドノヴァンが長官を務めるOSS(Office of Strategic Services:CIAの前身機関の1つ)を用いて中華民国、すなわち大日本帝国の傀儡政権の打倒を模索したのである。このスパイ攻勢によって南京は激しい諜報戦が繰り広げられる戦場となった。一見して戦況不利に伴う権力闘争の激化に見えたそれは、その実アメリカ政府の策略であった。そしてOSSの威信を賭けた活動はついに汪兆銘政権の崩壊として結実する。

 クーデターを起こした勢力は実業家であった宋子文を国家主席に擁立。宋子文は国民党政府の元外交部長であり、反日家でもあったため汪兆銘政権成立後は一線から退いていた。宋子文は直ちに対米和平条約締結を宣言。アメリカ政府は即座に現状維持で和平条約を結んだ。連合国に関しては和平交渉がまとまらず長引いたものの、中国大陸から連合国諸国はかなり離れた位置にあり、大勢には影響を及ぼさなかった。

 法的にはいまだ属国であり、宗主国がいまだ抵抗中、という情勢下での講和条約締結だったため、大日本帝国にとって見れば中華民国の単独和平は裏切りにも等しい行為であった。混乱状態に陥った南京亡命政府は拘束やアメリカへの引渡しの危険性もあったが、鈴木の説得により日本統治下にあった上海に居を移した。しかし、亡命政府が最大の後ろ盾を失った今、誰も彼らの言うことに耳を貸そうとはしなくなった。

 クーデター成功後、アメリカ軍は中国南部の大日本帝国陸軍の残党を掃討する作戦に移った。支那事変終了後、コワンシー(広西)省は大日本帝国に割譲されたが、この一帯に20個師団ほどの大日本帝国陸軍の部隊が補給を絶たれながら残っており、これを押し潰すという骨子である。作戦開始は5月に入ってからとなったが、これが太平洋戦争におけるアメリカ軍最後の攻勢となった。

 掃討作戦は補給を絶たれた部隊の脆弱性を示すかのようにあっと言う間に進み、5月12日、広西省は李宗仁の指導下で独立を果たす。悲願の再独立を喜んだ彼らではあったが、アメリカ政府にとって「広西軍閥」は中国の波乱要因を増やす存在でしかなく、あくまで「道具」として見られていたのであるが、それは彼らが知る由もないことであった。

 この広西軍閥の再独立と20個師団の壊滅が尾を引き、日米間の和平交渉が加速。そして5月23日、上海の亡命政府が東京暫定政府から打診された日米講和条約を受理。ここに、日米講和条約が成立する。

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 講和条約の要旨は以下の通りである。

・日本本土の速やかな返還と進駐軍の撤退
・南洋諸島、海南島、遼東半島、広州など中国大陸内陸部及び台湾以外の大日本帝国領土のアメリカへの割譲
・経済制裁の解除
・大日本帝国及び中国市場の開放

 アメリカ政府が大日本帝国と結んだ講和条約の内容は後世から見ても「極めて寛大」と評されるものであった。当初要件に入れられていた開戦を主張した人間の処分も結局取り下げられ、後は大日本帝国自身の裁量に任された。このような措置となったのは、アメリカの対連合国政策の大転換に関わっていた。昨年に対日戦の行方が粗方決まった頃、アメリカと連合国の鞘当が苛烈になり、一色触発の様相を呈していた。その中で、アメリカ政府は大日本帝国勢力の取り込みを狙い、寛大な講和条約の締結に至ったのである。

 しかし、講和条約締結後、大日本帝国内では南京から帰還した亡命政府と、直接対米講和交渉に当たった東京暫定政府の2つの政府が対立。案の定、というべき対立はアメリカ政府の持ち込んだ軍事同盟の提案により更に激化した。アメリカ政府は表向き大日本帝国政府の判断に委ねるとしたが、裏ではOSSなどの諜報機関を用いて旧東京暫定政府を有形無形に支援した。

 ただ、日本本土を守りきれず、あまつさえ大陸に逃げ出した旧南京亡命政府に対し大日本帝国臣民は不審感を募らせ、旧南京亡命政府は次第に支持を失って行った。そして11月2日、一時まとまっていた旧南京亡命政府及び旧東京暫定政府の連立政権が崩壊。大日本帝国の政権は旧東京暫定政府が手中に収めた。

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 一方、アメリカ本国では対日戦の戦勝をもたらしたルーズベルトが大統領選において圧勝。ルーズベルトは以前から仄めかしていた対日軍事同盟の締結についても信を得たと判断し、同盟交渉は佳境に入った。

 大日本帝国との同盟。それはすなわち対連合国宣戦に直結していた。何故ならば、大日本帝国と連合国の戦いは終結していなかったためである。連合国と大日本帝国との講和条約については、大日本帝国側が「アメリカに敗れたのであって、連合国に敗れたわけではない」と言い張って引かなかったため交渉がまとまっていなかった。後に「アメリカ政府が交渉を長引かせるよう助言した」との噂が流れるも、それを誰も証明することができなかった。

 そして1944年11月14日、米日軍事同盟が成立。この軍事同盟には中華民国政府も参加し、アメリカ政府は連合国、枢軸国、共産国に次ぐ新たな一大軍事勢力を形成することに成功した。

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続く。

HoI2集

アメリカAAR






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最終更新日  2012.11.09 09:35:02
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