イタリアの誇り、カルチョの真髄
現代イタリアフットボール論、結果至上主義とディフェンシブフットボールの原点 イタリア人はなぜフットボールに情熱を注ぎあれほど勝負にこだわり続けるのか? イタリア人と聞けば、仕事よりも趣味や家族を愛し、人生を調歌する快楽主義者を想像する人は少なくないだろう。 確かにそれは決して間違ったイメージというわけではない。ところがことフットボールに関しては、そんなイメージを持って見ていると面を食らうことになる。 イタリア人と彼らのチームは、勝つため、あるいは負けないためには努力を惜しまず、時には異常とも言えるほどの情熱と徹密さを発揮する。 さらに、快楽につながるであろう攻撃を二の次にしてでもまず先に考えるのはディフェンスのことだ。 勝つことも大事だが、まずは負けないために何をすれば良いかを考える。 プレー内容よりも結果最優先なのである。(ここ近年一部のビッグクラブに関しては、例外であるが継続できるかが重要であり、その魅了性がクラブにおいての根底となり得るか?重役以下、GM、監督、サポーター達が信頼できる程の魅力さと強さを両立できるかが大事なのである。 イタリアという国が、我慢強さと忍耐が必要とされるディフェンスに重きを置くフットボールを長年に渡って継承してきた事実には驚かされる。 それにしてもイタリア人、そしてイタリアの多くのチームは何ゆえにここまで``結果"を追求するのだろうか。 そのこだわり方は他国のそれに比べると、時には常軌を逸していると感じさせることさえある。 その理由を辿っていくと、およそ150年前まで現在のような``統一国家''が存在しなかった事実に突き当たる。 イタリアという国はかつて、北はオーストリア、南はスペイン東部のアラゴンに占領されて小さな国に分かれ、群雄割拠の中で戦争を繰り返した歴史を持つ。 例えばアドリア海、地中海の覇権を巡って争ったヴェネツィア、ジェノア、ピサ、アマルフィなどの海洋国家や、フィレンツェ、ミラノなどの都市国家は中世時代に互いに戦争した過去があるが彼らにとってフットボールとは、その当時の争いを現在に持ち込む“代理戦争''とも言える。 つまり、多少大袈裟な表現をすれば、フットボールは戦争であり、敗戦は死を意味するということだ。 「目的のためには手段は選ばないこと」と唱えたのは、『君主論』や『フィレンツェ史』で知られるルネッサンス期の歴史家であり政治息想家のマキャヴェリだが、「フットボールは代理戦争」という背景を考えればマキャヴェリの言葉を借りずとも、イタリアの人々が「プロセスは重要でなく結果がすべて」と考えるのは、ごく自然なことだと思えてくる。 また、よくイタリア人にとって「フットボールは人生」だと言われる。 現代では様々な娯楽が世の中に氾濫しているが、極端な言い方をすれば、イタリア人にとってのそれはフットボール以外にないとも言える。 それほど彼らのフットボールに対する入れ込み方と情熱は尋常ではない。 また、欧州各国とは微妙に異なる、こうしたフットボールに対する感覚が勝負や結果に異常に執着するイタリア人独特の気質を育んだとも言える。 さらに、イタリア人はドイツ人のように頑健な体格を持たず、イングランド人のように90分間をフルに動けるスタミナもない。 したがってヨーロッパの強豪と対等に戦うには戦術面を磨くのが彼らに対抗する唯一の手段と考えている。 その意味では、日本ではネガティブに捉えられがちな「FURBO(狡猾さ)」が、ポジティブに捉えられているのもイタリアらしさと言えるだろう。 イタリアの代名詞とも言えるディフェンシブなフットボールが生まれたのは、決してこうした背景と無縁ではあるまい。 人々はそれを``カテナチオ(鍵を掛ける)"と呼んだが、そのルーツは、ヴィットリオ・ポッツォ率いる30年代のイタリア代表にあると言われる。 19年間に渡って代表監督を務めたポッツォは、とうじとしては革新的な戦術、``カウンターアタック''をもって34年、38年のワールドカップ連覇を呆たした古の名将である。 そして、このカテナチオという戦術を世の中に広く知らしめたのは、エレニオ・エレーラの功績だろう。 マーゴ(魔術師)の異名をとったこのアルゼンチン人監督が60年代前半にインテルを欧州の頂点に押し上げた戦術とは、ディフェンス陣が厳しいマークで守りを固めた上で、カウンターから速攻を狙うというシンプルなものだった。 しかし、当時としては珍しいFWのディフェンス参加も義務寸けるなど、徹底したやり方でインテルをチャンピオンズカップ連覇に導くという成功を収めたことで、イタリア人のディフェンシブサッカーに対する信仰は揺るぎないものとなり、やがて「得点を奪うよりも失点をしないサッカー」という考え方がイタリア人に定着していった。 こうした流れから``カテナチオ"や``カウンターアタック''と言えばエレーラの名をイメージする人は少なくないのである。 同じ頃、インテルのライバルであるミランを率いた``バロン(男爵)"ことネーレオーロッコも、いち早くカテナチオを取り入れた指揮官だった。 ミランに移ってくる前はプロヴィンチアのパドヴァで指輝を執っていたが、攻撃の選手に恵まれず、セリエA残留のために選択したのだが、カウンターから数少ないチャンスをものにし、その得点を守り切るという戦術だった。 しかし、結果的にこれが成功し、ミランでも同じ戦術を踏襲したロッコは69年、イタリアに初めてチャンピオンズカップをもたらす。 当時のミランには史上最高の選手との高い評価を受けるリヴェラが在籍しており、攻撃は彼とアルタフィー二ら2,3人のアタッカーに委ね、トラパットー二やチェザーレ・マルディー二が堅実なマークを遂行する。 固いディフェンスをベ一スに最少得点を守って勝利するパターンを確立した。 ロッコ、そしてエレーラが築いた戦術を基礎とし、それを踏襲する指揮官は増え続け、それから30年近くに渡り、カテナチオはイタリアサッカーの主流を占めることになる。 しかし、この流れに一石を投じたのがアリーゴ・サッキだった。 カテナチオとは対極に位置するオランダの攻撃的なサッカーを理想とし、イタリアでそれを実現しようと考えたサッキは、87年にミランの監督に招璃されるや、厳しい秩序と数限りない反復練習で攻撃フットボールをチームに植えつけると、最初のシーズンからスクデットを獲得し、センショーションを巻き起こした。 さらに翌シーズンはチャンピオンズカップを制し、ヨーロッパの頂点に立った。 その戦術もさることながら、人々の目に斬新なものとして映ったのは、ホーム、アウェイを問わず、常に勝利を目指す戦い方で、それはカテナチオではタブーとされていたことだった。 結果至上主義のメンタリティーこそがイタリアのサッカーと強さを支えているサッキの成功に刺激を受けて、ズデネク・ゼーマン、アルベルト・ザッケロー二ら攻撃的メンタリティーを持つ指揮官たち、いわゆる``サッキ派"が台頭したのもこの頃だった。 しかし、サッキ率いるミランは、チャンピオンズリーグを2連覇したものの、スクデット獲得は最初のシーズンのみという結呆で終わった。フットボールそのものはスペクタクルだったが、最終的には結果に結びつかないケースが多かったのである。 やがてサッキ派がその勢いを失っていくと、伝統派、保守派が勢カを盛り返し、トラパットー二に代表される結果優先のフットボールが再び見直され、現在、その勢力はほぼ五分五分と言われる。 02-03シーズンのチャンピオンズリーグでは、準々洪勝のレアル・マドリッド対マンチェスター・U戦が事実上のファイナルと言われたが、実際そのゲーム内容はスペクタクル性に溢れるもので、イタリア人でさえ多くの人々があの試合を満喫したという。 しかし、ファイナルに勝ち残ったのはレアル・マドリッドでもマンチェスター・Uでもなく、ミラン、ユヴェントスというイタリアの2チームだった。 結果的に、ミランとユヴェントスによる02-03シーズンのチャンピオンズリーグ決勝はスコアレスドローの末にPK戦で決着した。 もちろん、その試合の内容は、両チームとも慎重な戦い方に終始したこともあって、スペクタクル性という面で見れば、先のレアル・マドリッド対マンチェスター・U戦とは比べるべくもない。 しかし、イタリア人にとっては、それはさしたる問題ではない。 その試合に勝つために何をしたか、そして最終的に勝利を得たか、それが何より重要なのだ。 サッキがもたらした革命も、イタリア人のメンタリティーの本質的な基本部分を変えるまでには至らなかった。 しかし、それは長年培われてきたイタリア特有の文化であり、美学でもある。イタリア人にとってフットボールとは``フットボール"ではなく、``カルチョ''でしかない。 そのカルチョとは、楽しむためのものでもなければ魅せるためのものでもない。あくまで騰利するためのものなのである。 そして、どんなに時代が移り変わろうとも、その価値観が覆されることはないだろう。終章「カルチョはフットボールではない。」イタリアのフットボールをそう表現する者もいる。確かに彼らは、リアリストだ。ゆえにあらゆる手段を用い、試合の不確定要素を排除する。それはまるで、娯楽性を追及し続ける欧州の流れに対するアンチテーゼのようでもある。しかしそこには、イタリアという国独自のフットボール観とプライドが存在するのだ。