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January 1, 2006
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新年、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。



年末年始は久々に実家に一泊しました。

里帰りといっても電車で8分の実家、帰省ラッシュとは無縁です。笑


大晦日の日に祖母から

「あなたが知りたかったのはこういうものじゃないの?」

といって手渡されたのは

1988年に発行された祖父の対談記事が載った雑誌でした。


私の尊敬する祖父は生理学者であり

その研究で多くの賞を受けていました。


私が1歳から7歳までの間、

父の仕事の関係でニューヨークで暮らしていたときに

たまたま時期を同じくして

祖父は日本とアメリカの大学を半年間ずつ行き来する生活を送っていました。

そしてアメリカ滞在中は

金曜日の夕方になると車で2時間ほどかけて我が家にきては、

一緒に週末を過ごしました。

自転車の乗り方を教えてくれたのも祖父です。

字の読み方も、祖父に習いました。

ニュースを聞くと頭がよくなると言われ、

わけもわからずニュースの時間にテレビの前に座り

終わると「頭よくなったかな?」と聞いていました。

私が窓からの景色や

綺麗な風景に人並み以上に大きな関心を示すのも

金曜日の夕方になると祖父の到着を何時間も窓辺で待ちながら

時間と共に変わる木々の陰影や

際限なく舞い降りる雪たちを眺めていたあのころに

培われたものではないかと、今になって感じています。


成長して高校生になった私は

一年間、フロリダのタンパという町の近くに留学していました。

そして学校活動の一環で参加した演劇で一人芝居を認められ、

幸いにも州大会にまで出場するという快挙(!?)をなしとげました。

ところがそれ以上に驚いたのは

私の州大会の”翌日”から

大会のあるタンパから車で1時間ほどのサラソタという町で

祖父の関係する学会が開催されるということでした。

当時81歳だった祖父は

それが海外で参加する最後の学会にしようと渡米し

州大会当日にタンパで落ち合い

地球の反対側の街で一人芝居を演じる私の晴れの舞台に

嬉しくも立ち会ってくれることができたのです。

なんという偶然、いや、でもやはり必然なのでしょうか。

その2年後の1991年、83歳で亡くなった祖父のことを思い出すたび

あの夢のような出来事を懐かしまずにはいられません。


他人が読んだらちっともおもしろくない、

ただの思い出話になってしまいました。(すみません 笑)


でも、そんな大好きな祖父と

当時は

なにを思って研究していたのか

なぜその研究課題を選んだのか

どんな苦労をどうやって乗り越えたのか

などという本質的な話をすることもないまま

過ごしてしまいました。


今となってはそれを知る術もない・・・


祖父への想いは

「家族の歴史を遺す」という、歴史上の人物の話を読むのとはまた違う

「いのちの繋がりを身をもって感じることなのだ」という今の想いに、

そしてこれからの活動の取り組みに通じていました。


そんなやさき、大晦日に突然祖母から、雑誌を渡されたのです。

除夜の鐘を聞き終わった後、ベッドで何度も何度も読み返しました。


1988年の祖父、つまりタンパで落ち合う1年前、

そして亡くなる3年前の祖父がそこにはいました。


「われ思う」という研究に焦点をあてたインタビューでした。

「眼の研究」程度にしかわかっていなかったことが

「網膜神経生理学」というものであったことがわかりました。

そして研究課題の選び方や、逆転の発想で切り抜けた新たな学説の提唱

優秀な弟子が集まってきた理由など・・・

そこには対談形式で、祖父の口調で書かれていました。


少しだけ抜粋すると・・・


研究課題を選ぶ際の視点>

「研究の現在のレベルを雲海にたとえると、
 雲海の下でゴソゴソやっていたのでは本当の意味の研究ではない。
 雲海の上に出なければいけない。
 出るためには、雲海がどの高さにあるかを見極めなければいけない。
 そして雲海の上に出るのには二つの行きかたがある。
 一つは、方法上の行き詰まりをなんとか打開すること。
 そしてもう一つは、材料はいっぱいあるけれども
 それらがうまく法則的にまとまらないという現状を
 なんとか叡智の力で打開する。」

優秀な弟子が集まった理由>

「私は教育者としては、
 少なくとも一般の学生を教育するということに対しては、
 失格者だと自認しています。
 (中略)
 ただ私の個性がある震動を出しているときに、
 彼らの私と似た個性が私のと共鳴しあって、
 私のところへ寄って来たように思われます。」


読んでいるうちに、ますます、祖父と涙が出るほど話がしたくなりました。

祖父は「研究者」として一生を終えましたが

私は「事業家」という道を選びました。

といってもまだ事業家の「たまご」にもなりきれていません。

雲海の上に出る方法として祖父は

「方法上の生き詰まりをなんとか打開する道」

つまり前者を選びました。

私に叡智があるかは別として、

世の中に散らばっている色々なものを私なりの視点でまとめなおして

後者で頑張りたいと思っています。

まだ部下はいませんが、

「後世に」などという大それたことをいきなり言い出すのですから

私には私の個性があると思っています。

その私の個性の震動に共鳴する誰かと

祖父が出会ったように、出会いたいと思っています。


対談の中で、同じく学者であった曾祖父の話もでてきました。

曾祖父は名物教授といった派手な「動」。

一方その弟子でもあった祖父は「静」であったといいます。

私もどちらかというと「静」の部類だと認識しています。

そんな繋がりを感じられるのは、

ひとえに血の繋がった大好きな祖父であるからこそ。


「家族の歴史を聴き書き遺す」こと。

これは自分といういのちの存在意義を感じさせてくれる

誰もが関係する大切な取り組みです。

そして今回、改めてその威力にまいりました。

本当はプライベートなこと、戦争中のこと、もっともっと知りたいです。

広島に軍医として派遣されていたとき、山の中できのこ雲を見たそうです。

疎開中の家族は広島に配置されたことを知っていたので死んだと思い込み、

祖父が帰ったときにはお化けだと大騒ぎになったそうです。

これは祖父から直接聞きました。

でも、残念ながら、他に何か書き残したものがない限り

これ以上のことはわかりません。


今年から、本格的に「昭和の記憶」というNPOと活動を共にします。

そのような中で、

まさに、私がこれから取り組んでいきたいことを体感できたお正月でした。


そして何よりも嬉しいのは

他でもない、一番大好きな祖父が

こうして時空を越えて

2006年のことはじめにエールを送ってくれたことでした。



やっぱり私は祖父に支えられています。



そしてもちろん、祖父だけでなく

多くの人に支えられて今年も頑張らせていただきます。

いのちの繋がりを感じて、

想いを後世に遺すお手伝いをさせていただきたいと思います。











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Last updated  January 3, 2006 10:51:46 AM
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