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祝祭男の恋人

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カテゴリ:小説をめぐる冒険

  

 海から立ち昇る霧のような雲を仰いで、遙か港を見下ろせる公園に出た。温かい風が這い上がって、頬に吹き募ってくる。丘の傾斜に乱立する黒く眠たげな木々は、大地に生えた海の触手のように揺れ合い、たっぷりと潮気を含んでいるに違いなかった。枝々が交錯するわずかな隙間から、空を映した灰色の海が見える。迷い雲のように船舶が漂い、その向こうから灯台が、浮かぶようにして現れた。それら一つ一つが物ではなく、音として感じられる。港の景観は巨大なざわめきだった。 不意に、造船所の強い灯が、細かな波の作る潮影を際立たせるように光り出した。
「どうね、あれが鶴の港と呼ばれよるとさ」
 石のベンチの上に立って更に背伸びをしながら、海から吹いてくる風に眼を細めている祖父が言った。
「あっこのほうに入り組んで広がって、空から見たら鶴が翼を広げよるように見えるわけたい」
ぼくは祖父の隣に立ち、相づちも打たないまま、いつまでも海を、港を、そこから扇状に広がっている街を眺めていた。いくら見ていても足りないように感じていた。凄まじい情報量だった。刻々と姿を変えてゆく港の相貌に、ぼくの言葉は追いつくことが出来なかった。何度も、あれが海で、あれが造船所、鶴の港、と繰り返しているだけだったのだ。

 初めて訪れたはずでも、不思議と懐かしさを覚える場所がある。似ている、というのではない。語り聞かされたわけでもなく、かつて自分が慣れ親しんだ風景とはまるで違っていても、異質なものとは感じない場所が、時としてあるものだ。ぼくはそんなことを考えながら、妙な照れ臭さを覚えた。

 陽が翳るにつれて、海の肌は細かなひびが入るようにちらちら光り出した。沖の方から次第に海は、さながら石に変容しているように見えた。

 そろそろ戻ろうか。ぼくは黙って祖父のほうを振り返った。
 ぼくの祖父母、そして母は、この坂の多い長崎という街で生まれた。そのためだけに懐かしいというのではない。いや、実はただそれだけのせいなのかも知れないが、ぼくは、その滞在の間ずっと、目に見えぬ大きなある力を感じていた。おそらく力と呼ぶよりも、感覚的には歌声のようなものにより近い何かがあると感じていたのだ。

 祖父母が長崎を訪れたのは、約三十年振りのことであり、ぼくにとっては初めてのことだった。その日、市内のある料亭の奥まった座敷で、祖母の母、ぼくの曾祖母に当たる人の五十回忌が営まれた。ぼくたちは少し遅れて到着し、女将に案内されて座敷へ上がった。すでにそこには、酒に誘い出されたたくさんの笑い声が渦巻いていた。上座には曾祖母と思われる人の遺影と、位牌が両脇から豊饒な花々に挟まれて供えてあった。ぼくは祖母に習って膝を突き、お辞儀をした。そして手を合わせたあと、ぼくは初めて見る曾祖母の眼差しに、少し眼を伏せつつ焼香をした。

 祖母が遺影に歩み寄ると、その脇で深々と頭を下げていた女性が、「この写真はあなたと撮ったものなのよ。覚えてる?それが一番言い写真だったの」と訛りのない言葉で囁いた。

 二人は声を高めて半ば抱擁しあい、再会できた喜びを確かめ合っているようだった。もう一度遺影をよく見ると、隅の方に誰かの肩が半分だけ写っているのが判った。祖母が傍らに座っていたのだ。若かりし頃の祖母の肩だった。

 それからぼくは祖母の親戚の人々に自己紹介をして回った。思っていた以上にたくさんの人々がそこには集まっていた。祖母の兄弟、兄弟の子達、それから孫、また孫の子達までが来ていたのだ。ぼくは、血の繋がりが遠いにせよ、こんなに多くの見も知らぬ人々が、一つ所から生まれてきたこと、それらの人々を一気に集めうる一人の人間の存在の力に驚いていた。深い皺の刻み込まれた白髪の老婆達。祖母のように生まれた土地を離れることのなかったほかの兄弟達は、聞き取りにくい土地の言葉で何事かを語り合っていた。もし、この五十回忌という機会を逃せば一生会うことのなかった人々かも知れなかった。

「やっぱり目元が似とらっさるねえ」
ぼくの空いたグラスにビールをつぎ足しながら一人の女性が言った。それにつられて、その脇に座っていた年老いた女性がぼくの顔を見て微笑み、何度も何度も頷いた。
「そうだな、やっぱり目が似とるね」
今度は反対側に座っていた赤ら顔の男が言った。彼らは、ぼくの母の従兄弟だと言った。そうしてやはり微笑みながらぼくに深い眼差しを注いでいた。彼らが知っていて、ぼくの知らないことの量は計り知れなかった。その微笑みと眼差しが一体どれほどの時間の蓄積の上にあるものなのかも判らないのだ。しかし、それは多分知る必要もないことなのかも知れなかった。

 ぼくは次から次に酒を飲まされた。けれども不思議と酔いはなかなか回らなかった。すると祖父が酔っ払って上機嫌になり、お酌をしに回ってきた。
「お孫さんお酒強いですねえ」
とさっきの男が祖父に言うと、
「そりゃあ俺の孫だもの」
と言ってふらふら戻っていった。そのうちに祖母達は思い出話に夢中になってゆくようだった。ぼくはそれを黙って見ていた。そうして誰からともなく帰り支度を始める頃にもなると、さすがにぼくも自分がひどく酔ってしまっていることに気が付いた。
 





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Last updated  Apr 24, 2005 04:28:05 AM
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