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祝祭男の恋人

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カテゴリ:小説をめぐる冒険

 

 園子さんは、自分の記憶を失っているという。正確に言えば、自分が十九歳のままだと思い込んでしまっているのだった。普通の生活に差し障りがあるわけではないが、四、五年前からおかしなことを口走るようになり、今ではもう、かつての自分の時間に閉じこもったまま、帰ってこようとはしないということだった。そのため、以前独りで住んでいた家を引き払い、雪代さんの家で暮らすように説得し、この二年近くは、二人きりで生活しているのだという。
「あるとき、大姉さんところの治ちゃんがおらん、もう学校退けたのに帰って来よらんばいって言い出して、私おかしいと思ったんですよ」
祖母は湯飲みを見つめたまま、

「ああ、治ちゃん小さかった頃は、園ちゃん負ぶってよう学校行きよったもんねえ。姉ちゃん姉ちゃんってよう懐いて」
と呟き、小さく微笑んだように見えた。そうして園子さんのほうを眺めやり、
「園ちゃんも小さい頃、よう私に懐いてねえ。なんてことじゃろうか・・・」
と、顔をしかめながら暗く呟いた。
「前に会うたときには、そぎゃんことありゃせんかったのに、うちの姉さん達も何も言いよらんけんね。ばってん毎日どうしよるとね?」
園子さんは祖母の言っていることを理解する気もないように、虚空を見つめて、半ば微笑みさえ浮かべるように見えた。銀色になった白髪は、もはや少なくなり地肌が露わになっている。顔に刻まれた深い皺は、少なくとも七十年以上は生きた証であり、手の甲に出来た茶色い染みをさすっているその姿は、祖母より年老いているようにも見えた。血管の浮き出た細い腕や、耳朶から首筋にかけて深い谷を作っている皺の流れを見ると、この体の中に、ぼくよりも若いたった十九年という短い時間しか降り積もっていないとは考えられないことだった。
「病院の先生にもゆうとっとですが、ストレスじゃゆうて、取り合わんし、ストレスでこぎゃん子どもごたるようにはならんでしょうが。私のことはなんとか覚えちょるのに、姉さんのことば忘れよるとはなんてことじゃろうか。せっかく七十まで生きて、その五十年忘れるのはもったいなかよって、そいけん私言いよるんですわ、園子さん度ぎゃんしていきてきよらしたか、園子さん忘れても、私覚えちょるって」

 雪代さんの言葉を聞きながら、祖母は深い溜息をもらした。ぼくは祖母の気持ちを察しかねた。園子さんと過ごした頃の祖母の姿は、祖母自身よりも、園子さんの中に多く生きているはずだった。記憶をなくすことは、自分だけでなく誰かの時間も消してしまうことになる。しかし、自分の生きた時間を失ってしまうことの辛さは、長く生きた人間にしか解らないものに違いなかった。

 ぼく達は重苦しい気分を分け合いながら、それでも目の前に出された料理を食べないわけにはいかなかった。雪代さんは、ぼくにどんどん酒を勧めてきたが、ぼくは、園子さんのことが気に掛かり、ずっと彼女を観察していた。彼女が五十年の時間のずれをどのようにして理解しているのか解らなかった。上品に刺身を箸でつまんで、ゆっくりと口へ運んでいる。ただ彼女は夢を見ているつもりなのかも知れなかった。

 食事が済むと園子さんはすぐに二階へ上がってしまった。ぼく達は、部屋に残ってお茶を啜っていた。雪代さんが古いアルバムを開いてみせ、園子さんの失われた五十年をゆっくり解きほぐすように語り出すのを聞いていた。朽ちかけたアルバムから、数枚の写真がこぼれ落ち、その一枚を拾い上げると、祖母は懐かしそうに目を細め、じっと見つめていた。三十代前後の園子さんの写真だった。古い家の縁側のようなところで撮られたものらしく、硝子窓に寄りかかるようにして園子さんらしき女性が写っている。その脇に立っているのが園子さんのご主人で、彼女の膝にしがみついているのが息子さんということだった。
「これはお父さんが撮った写真げな」
と祖母が言い、祖父は、ああ、覚えとる、と何度も何度も頷いた。祖母は写っていないのかとぼくが尋ねると、
「ほうら、こんときはあんたのお母さんが石垣から落っちゃけて、私急いで家に戻ったのよお、額のところたいそう縫ってねえっへっへえ・・・」
と笑い涙を拭いながら言った。些細な切っ掛けから、止めどなく思い出話が溢れてくるようだった。

 眉間のあたりを涼しそうにして微笑んでいる園子さんを見ながら、ぼくは再び自分がどこにいるのか判らないような、まるですべてが嘘のような錯覚を感じていた。話は次第に寝息のように罪のない話になり、ぼくは祖母と祖父が夢見るように語る思い出に、心を和ませながら耳を傾けていた。

 仏壇のある座敷に布団が敷かれ、ぼくは旅の疲れとほろ酔いのおかげで、すぐにでも眠りにつけそうな気がした。電気を消して横になると、自分の脈拍を感じ、重い目蓋が燃える うに熱く痺れていた。隣には、祖母と祖父が横になっていた。
「園ちゃんが十九ってゆうたら、戦争終わってすぐのことじゃろか・・・」
と祖母が独り言のように呟くのが聞こえ、
「そうたいね、戦争終わって三、四年の頃じゃろうね・・・」
と祖父が言った。
「何か辛いことでもあったんじゃろか、可哀想に・・・こんなことならもっと連絡とっとれば・・・」
溜息に混じってそう言う声が聞こえ、その余韻はぼくの眠りによって掻き消され聞こえなくなった。








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Last updated  Apr 27, 2005 02:58:16 AM
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