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カテゴリ:重箱の隅
週末なので、一週間分のごはんをつくってます。まとめてつくったものを小分けして弁当箱にいれ冷蔵庫に保存し、毎日一つずつもっていきます。週の間にはほとんど料理しません。あ、念のためにいっておくと、週末にはがんばって2-3種類のものを作るので、一週間まったく同じものを食べ続けるわけではありません。さらに、たとえばカレーをつくっても、弁当箱にいれる時に、わざと肉のかたよった箱と野菜のかたよった箱をつくったりします。そして、ピクルスやチーズを入れたりいれなかったりすれば、まあ毎日少しずつ違う弁当を食べることができる、、、、と本人は思っているのだからよいでしょう?!
で、英語のcookっていう言葉は、「料理する」って日本語に訳されるけど、cookは加熱する調理のことなんだよね。野菜きったりつけものつけるのは、cookではないのだ。コンビニ弁当を電子レンジで温めるのはcookなんだろうか???知らん。 日本にはイモを海水で洗って塩味をつけて食べるサルがいますが、食べ物に火を通して食べる動物は人間だけじゃないかな?火を通すと、柔らかくなったり、おいしくなったり、ナマでは消化できないものが消化できるようになったり、食べ物についている寄生虫やばいきんを殺すことができたり、保存がきくようになったりします。それから食べ物に火をとおしている間に、あたりにいい匂いがただよって、食欲をそそったり懐かしい気持ちになったりしますよね。火を利用することを最初に発見したひとは、えらいな~。 火があれば、明かりにもなるし、暖をとることもできる。(ついでに、都合のわるいものを燃やしてなくしてしまうこともできる。)でもマッチの発明される以前には、火をおこすのはとても手間がかかった。だから人々は種火をたやさないようにした。いっぽう火が大きくなりすぎると、ものを破壊し、命をもうばってしまう。だから、火を安全な大きさに保ち、でも絶やさないようにすることは重要だった。ところが火を24時間体勢で管理するのは、一人では無理。そんなわけで、人間は火を使うために共同体を形成していったんじゃないか。火は共同体の中心。だから、神が火のなかにあらわれたり、神の霊が炎の形になって人々に下ったりするんじゃないの?で、いまもって、集まって祈るときにはろうそくに火をつける。カトリックのミサのときには2本以上ろうそくをともすって決まってます。で、司教ミサのときには4本とかもっとたくさんろうそくつけることが多くて、それは司教ってたいてい年とってて、より明るくしないとミサ典書が読めないからだろうと思ってたけど、もっと別の意味あるのかも。 んじゃ、この便利な電気やら電磁調理器やらにあふれた文明社会は、人のつながりを弱めてしまうんだろうか?う~~~~む。使い方次第だよね。昔だって、火を使いたい時だけつかって共同体のために働かない輩はいただろうし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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