先週、新入者歓迎ミサが教会であった。年に2回ある、うちの教会の恒例。
ミサのあと、信徒会館で(いつもの)コーヒータイム。新入者はそれとわかるようにミサのときに胸にワッペンをはられていた。私は、ミサのときとなりに座っていたご夫婦がたまたま新入者だったので、お話した。そのご夫婦も、ちゃんと私がとなりにいたと認識していた。
おそらく60代のご夫婦。ご主人が引退して、奥さんはまだ引退してなかったけど仕事を変えたくもなっていたので、長年住んだカンザスをひきあげて子どものいるフロリダにうつってきた。奥さんのご両親はもう亡くなっていて、ご主人のほうはまだおかあさんがご存命だけど、アルツハイマーでもう自分の息子のことがわからなくなったので、「わからないなら、もう近くにいて会いに行く意味がないから」おかあさんをカンザスの老人ホームに残してフロリダに引っ越す決意をかためたと言っていた。
「わからないなら、もう近くにいて会いに行く意味がないから。」最初はちょっと驚いたが、それはきっと、自分を納得させるための理由なんだろうな、と気づいた。わからなくなってしまったおかあさんを見るのがつらくなったんだな。そうじゃなかったら、そんなことを初対面の私に聞かれもしないのに言う必要がない。教会という場がそうさせたのだろうか。
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